森里瀬奈が思い出す限り、高校一年の今に至るまで、幼馴染の支倉明美と仲が良かったと感じた出来事は少ない。家が隣で、幼稚園からの腐れ縁という仲にも関わらず。
瀬奈は今日も朝から怒っていた。
「明美、何で朝っぱらから馬鹿にすること言うの!?」
前を行く明美は、腰まで届く黒髪を揺らし、颯爽とした足取りで歩いて行く。我関せずという態度だったが、流石に瀬奈が怒鳴ったのはうるさかったのだろう、仕方が無さそうに足を止めて振り返る。
涼やかな切れ長の黒目が、瀬奈を捉えた。
瀬奈は自分の中の威勢が勢いよくしぼんで小さくなるのを感じる。
明美の服装は、瀬奈と同じ高校の灰色のブレザーだ。安っぽい感じの制服なのに、明美にかかるとお嬢様学校のもののように品が良く見える。
顔立ちや肢体の美しさは勿論、纏う空気までが澄んでいる。明美はそんな、どこか浮世離れした美貌を持った少女だった。
瀬奈は明美に静かな眼差しを向けられると、平凡な自分を自覚して萎縮してしまう。だが、今日こそは明美の視線には負けるものかと見つめ返す。
「馬鹿にしてなんて無いわ。事実を述べただけ」
明美は冷たく言った。
「何でそうなるの? 私はただ挨拶しただけじゃない」
瀬奈は綺麗で知的な幼馴染を嫌ってはいなかったから、仲良くしようとそれなりに努力していた。だというのに、明美はその努力を平気で踏みにじるのだ。いい加減にして欲しい。自分が一体何をしたというんだろう。
「それがうるさいのよ。朝っぱらから大きな声で。もう少し相手の迷惑も考えたら?」
瀬奈自身は真っ当と思っている反論を、明美は淡々と突き放して否定した。瀬奈はぐっと言葉に詰まる。
確かに瀬奈は大声で挨拶をした。
朝に弱い明美にとって、ただの騒音でしかなかったのだろう。これは悪い事をした。
今回は明らかに瀬奈が悪いようだ。瀬奈はそれ以上責めることが出来ず、ぎゅっと唇を引き結ぶ。
「悪かったわね! じゃあ、もう挨拶なんてしないからっ!」
結局、子供じみた捨て台詞を残して、明美を追い越して早足で歩き出す。
(ったく、もういいわよ。明美ってばいっつもああなんだからっ)
腹立ち紛れに足音も荒く歩いて行く。
「ん?」
そこから数歩歩いた所で、瀬奈はふと違和感を覚えて立ち止まった。
……地面が揺れている?
そう思った瞬間、ドンッという地底から突き上げられるような衝撃を感じた。
「!」
縦方向の強い揺れに、瀬奈は平衡感覚を失って声を上げる間もなくその場に尻餅を付く。
ガシャンッというけたたましい音とともに近くの塀がくずれた。
――何もかもが震えていた。
ものすごい音がしていたのかもしれない。あまりの揺れに考える余裕がない。
(明美っ)
地面に這いつくばるようにしてどうにか後方を振り返り、声にならない声で幼馴染みの名を呼ぶ。
明美もまた、瀬奈と同じように地面に座り込んでいた。いつも冷静な顔も、さすがに青ざめている。
「あっ」
瀬奈は小さな悲鳴を上げた。
明美の後ろ、彼女から少し離れた所にある電信柱が傾いている。
明美は気付いていない。
――倒れるっ!
そう思いはしても、揺れがひどくて身体が自由に動かない。
電信柱はゆっくりと倒れてくる。
明美がはっと顔を上げる。
「あ、けみっ」
瀬奈は必死で叫ぶ。
――駄目だ、間に合わないっ!
瀬奈が絶望に包まれたその時、突然足元が消えた。
「へっ」
思わず間の抜けた声を漏らす。
暗い穴の中を落下しながら、ようやく自分が地割れに落ちたらしいと頭の隅で理解した。しかし、その時には闇の中にぽっかりと切り取られた空はだいぶ小さくなっていた。