白浄花の輝き編 第一部 出会い

一章 落下したその先

 ふと気が付くと、瀬奈の耳元をすさまじい音を立てて風が吹いていた。
「え?」
 思わず漏らした声すらも、後方に飛ばされて自分の耳にも届かなかった。ただ聞こえるのは、ゴウゴウと鳴る風の音だけだ。
 後ろへと引っ張られるような圧力に瀬奈は疑問を感じ、ゆっくりと目を開ける。白い光が目にしみた。
「え?」
 再び間抜けな声を漏らす。
 まず見えたものは、青い色だった。
 少し視線をずらすと白いものが見えた。
 瀬奈にはそれが、視界いっぱいに広がる青空に見えた。
 訳の分からぬまま、視線を下へ向ける。
(えっ!?)
 瀬奈は息をのんだ。
 茶色い大地が広がっている。ところどころ緑色だ。たぶん森か何かだろう。遠くには真横に細長い山脈が見える。
 航空写真で見る写真のような、現実味のない景色が広がっている。
(お、落ちてるっ!?)
 瀬奈はここでようやく、自分が空を真っ逆さまに落下しているらしいことに気付いた。
 徐々に近づいてくる地上。
 体全体にかかる風圧は息苦しい程で、これが現実だと教えてくる。
(なんで? 空を落ちてる? さっきまで。地震が。明美が)
 次々と断片的に浮き上がる疑問や記憶。
 だがそれも過ぎ去り、瀬奈の頭の中には、自分が地面にぶつかり、トマトみたいに破裂してぐちゃぐちゃになるだろう想像で占められた。
 血の気が引き、手足の感覚が無い。
 どうしようと考えるけれど、こんな中でどうしようもない。あがいたところで落ちるのが止まるわけでもないのだ。
 ぐるぐると混乱しながらも、地面がだんだん近づいて来る。青灰色を基調とした、不思議な色合いの街だ。
(もう駄目っ!)
 瀬奈は衝突を覚悟して、ぐっと力を込めてまぶたを閉じた。せめて地面にぶつかる瞬間など見ずに済むように。
 その数秒後。唐突に落下が止まった気配がした。
「うわあっ」
 が、それも一瞬のことで、瀬奈は何か柔らかいものに当たる衝撃と誰かの叫び声とともに地面に倒れこんだ。
「…………」
 瀬奈は無言のまま、恐る恐る目を開ける。手の平に冷たい感覚があり、それが灰色の石畳だと分かる。周りを見るとどこかの通りのようで、見上げた先には青灰色の石材で造られた家々があった。どう見ても地面だ。
 ――瀬奈は、どうやら奇跡的に事なきを得たらしい。
 地面をもう一度確認した後、瀬奈は自分の身体でどこか痛いところがないか確認する。
「……怪我してないみたい」
 それで、ようやく詰めていた息をほっと吐いた。
「良かった、良かった」
 助かったことが嬉しくてにこにこしていると、下の方から恨めしげな声が聞こえてきた。
「……ちっとも良くない」
「へ?」
 ぽかんとして見下ろす。
 白いシャツと黒いベストを着た金髪の少年が、地面に伏せたまま上半身を起こしてこちらをにらんできた。
「どけよ、重い」
 あからさまに機嫌の悪い少年は、青い目を半眼にして言った。
 そこで初めて、瀬奈は自分が少年の上に座っていることに気付く。「ごめんっ」慌てて飛び退いた。
(そうか、さっきぶつかった柔らかいものって、この人だったのか)
 瀬奈は驚きながらも頭の隅で納得する。
 少年はすぐに立ち上がり、ズボンの埃を落とした後、ぽかんと座り込んだままの瀬奈へ不審の眼差しを向けた。
 少年の目付きは鋭く、不良じみていて正直お付き合いしたくない雰囲気なのだが、その顔立ちは綺麗に整っている。
(綺麗だから余計に怖く見える人って初めて見た)
 瀬奈はぼんやりとそんなことを考えた。今の瀬奈は状況が飲み込めず、どうしていいのか、そもそもどう体を動かせばいいのかも分からない有様だった。
 少年は瀬奈を怪訝そうに見て、眉間に皺を寄せる。
「あんた、見かけない顔だな。どこから来た?」
 結構な高さから落ちてぶつかったのに、少年は涼しい顔をしている。普通は死んでいてもおかしくないと思うのだが、もしかして細身な割にタフなのだろうか。
 相変わらず、そんなことを暢気に考えていた瀬奈は、少年の鋭い質問にはっと我に返った。
「え……、どこからって……」
 瀬奈は少し考えて、仕方なく空を指差して自信が無いまま首を傾げた。
「……空?」


「なんで信じてくれないのよっ」
 白熱灯に照らされた狭い部屋で、瀬奈は声の限りに叫んだ。
 眼前で瀬奈と机を合わせて向かい側に座った少年はうるさそうに顔をしかめ、瀬奈に静かな声で言い返してきた。
「そんな珍妙な話、信じられるわけがない。空から来ただとか、地震が起きて地割れに落ちただとか……」
 それもそうだが、信じられないのはこっちも同じだ。地割れに落ちたら空を落下していて、そして知らない場所にいたのだから。
 瀬奈はむっと押し黙り、ふと名案がひらめいて声を張り上げた。
「あっ、分かった! つまり、これは夢なのね! そうなんでしょ!」
「違うぞ」
 少年がすっぱりと否定したけれど、瀬奈は頬をつねってみた。
「……痛い」
「だから言っただろうが。他人の話はちゃんと聞け」
 ついでに説教までもが加わる。
 しかしショックを受けている瀬奈にはそんなことは聞こえない。
「……そ、そんなあ。夢じゃないの、これ?」
 真っ白な頭でつぶやく。
 夢としか思えないのに夢でないらしいあんまりな状況に、普段滅多に泣かない瀬奈でもさすがに涙が浮かんできた。
「……お、おい?」
 ぎくり、と固まって少年が恐る恐る訊く。
「…………」
「……何かよく分かんねえが、そ、そんなに気を落とすな」
 さっきまでの冷たい態度を改め、慌てて励まそうとする少年の襟首を、瀬奈は無言で掴んだ。
「おい、落ち着け……」
 少年は半分逃げ腰になりながら説得を試みる。瀬奈の目はすっかり据わっていた。
「……ここ、どこ?」
 低い声で尋ねる瀬奈。少年は目を瞬く。どうやら彼にとってはとんちんかんな質問だったらしい。
「どこって、そりゃあ第六都市フィースじゃねえか」
「フィースぅ〜? どこよ、それ。日本にそんな場所あったっけ」
 瀬奈は相変わらず襟首を掴んだまま、低い声で訊く。
「ニホン?」
「日本は日本よ。英語だとジャパニーズ。私達の住んでる国の名前でしょ」
「お前こそ何言ってる。俺の住むこの国はヴェルデリアだ。……もしかして、お前、ラトニティアのスパイか?」
 ふいに少年の顔がけわしくなった。
「は? 何言ってんの? そもそも、ラトニティアって何よ?」
 不可解な言葉に眉を寄せる瀬奈。
 少年は質問には答えず、瀬奈の手を払って襟首を取り返すと、眼光を鋭くしてぼそぼそとつぶやく。
「そうか、道理で怪しいはずだ。意味分かんねえこと言ってしらばっくれる気だったんだろ。そうだな?」
「だから何が……」
「おい、バーンズさん!」
 問い詰めようとする瀬奈を完全に無視して、少年は部屋の外へ大声で誰かの名前を呼ぶ。
「何だ? イオリ」
 黒い髪をした中年代の男がひょっこりと顔を出す。
「こいつ、もしかしたら王国のスパイかも。だから、今日は留置所に入れといて」
 イオリと呼ばれた少年の言葉に、バーンズはじろじろと瀬奈を見た。
「……こんな嬢ちゃんがか?」
「ああ、何かおかしなことばっかり言ってんだ。明日も取り調べるよ」
 イオリはそこまで言うと、瀬奈の方に顔を向けた。
「……ってわけだから、あんた大人しく捕まっててよ」
 何が「ってわけだから」なのかさっぱり分からない。反論しようと瀬奈は口を開きかけたが、同じタイミングでバーンズが口を開いた。
「あ、そうだ。イオリ、隊長が玄関口に集合だってよ」
「ああ、分かった。じゃあ、後任せたぜ」
「おう」
 バーンズの言葉に、イオリはその場を彼に預けてそのまま部屋を出ていってしまった。瀬奈には微塵も気など止めずに。
(ちょっと、何で置いてくのっ!?)
 予想外な方向に展開し始めた話に呼び止めようとした手をそのままに、瀬奈は頭をフリーズさせた。
「じゃあ、こっちついてこい」
 そんな瀬奈に、部屋の入口に立ったバーンズが冷たい顔をして言った。


「あんたも災難だなあ。よりにもよって、第五警備隊隊員に捕まるなんてよお。スパイしにくるならもうちょっと考えて行動するこった。ま、もうそんな機会は二度と来ねえだろうがな」
 瀬奈を独房に放り込んでからというもの、バーンズという中年男はずっとべらべらと喋り続けている。この男、黒髪黒目でがっしりした体躯にちょっとくたびれた感じの黒い上着を着ていて、喋る合間に煙草を吸っている。喋りと煙草の煙に嫌気が差して、瀬奈はギロリとバーンズを睨みつけた。それに自分のことを犯罪者だと決め付けているのも気に入らない。
「だから! 私はスパイじゃないってば! それに、ラトニティアなんて国も知らないって言ってんでしょ!」
 普段なら大人に対してこんな口はきかないが、もういい加減何もかもが嫌になっていた。夢ではないらしいこの状況と、目の前のこの男と、そしてこのひんやりと冷たい牢屋にも。
「しらばっくれるな。余計に罪が重くなるぞ? ま、これ以上ひどくはならねえか。うちの国じゃ、スパイは死刑なんだからな」
 バーンズはハッと憎たらしく鼻で笑い、蔑みを込めた目で瀬奈を見た。
「……えっ!?」
 一瞬聞き逃しかけて、瀬奈は伏せていた顔をがばりと上げる。
「今、死刑って言った?」
 そのままの勢いで鉄棒にしがみつく。
 バーンズはそんな瀬奈をひややかに見て、にやりと意地の悪い笑みを浮かべる。
「ああ、言ったぜ。……何だ、スパイのくせしてそんなことも知らねえのかい?」
 ちょっと面白がるような口調だった。瀬奈はむっとしてきつい口調で否定する。
「違うってば!」
 だがそれ以上何を言っても無駄だとさすがに分かっていたので、すぐにまた顔を伏せて膝を両腕に抱え込んだ。
(どうしよう。死刑って、そんな……。こんなどこかも分かんない場所で死ななきゃならないわけ?)
 日本の死刑である絞首刑が脳裏をかすめ、瀬奈の顔から一気に血の気が引いた。冗談じゃない。
「ねえっ、何かの間違いよ! お願いだから裁判開いて!」
 混乱のあまり再び鉄棒にしがみつく。
「裁判だあ? 何言ってる。そんなのは『国民』しか受けられねえよ。お前さんは『国民』じゃねえだろうが」
 バーンズはけげんな顔をした。
「でも! 私の国じゃ、平等に裁判が受けられるのよ! ここもそうなんじゃないの?」
 必死で言うが、バーンズはますますけげんな顔をするだけだった。
「そんな国があるのかい? いかにもスパイの吐く嘘だ。『国民』じゃない奴が『平等』に裁判を受けられるわけがないだろう。……いい加減あきらめて自白するこった」
 最後には何回も聞かされた台詞を付け加えられる。
「……もういい」
 瀬奈は低くつぶやき、また床に座った。
 バーンズに背を向けて、独房の小窓から覗く小さな夜空を見上げる。細い三日月が冴え冴えと輝き、凍りそうな光を注いでいる。
(……こうなったら)
 説得が通じないなら実力行使に出るまでだ。


「へへーん、だ。ざまあみろ、よ!」
 蒼い闇に包まれた街中を走りながら、瀬奈はしてやったりと笑った。
 バーンズを仮病を使って騙し、牢屋から逃げ出してきたのだ。腹痛を訴えて助けにきた彼を牢屋の入り口で突き飛ばし、逆に閉じ込めてきた。
 牢屋は地下にあり、上に誰かいるかもしれないと思ったが、誰もいなかったので何とか抜け出せたのだった。
 はっきり言って奇跡としか言いようがないが、逃げられたのだから何でもいい。
(……それにしても、これからどうしよう)
 ふと不安に駆られて立ち止まる。
 何も考えずに飛び出してきてしまった。
(とりあえず、落ち着こう。あの男の子の言ってたこと、思い出すんだ)
 瀬奈は一呼吸して心を落ち着け、昼間に会った金髪の少年の言葉を思い浮かべる。
 彼によれば、ここはフィースとかいう街で、ヴェルデリアという名の国にあるらしい。そして、この国はラトニティアという名の国と仲が悪いようだ。
「ヴェルデリア、かあ……」
 さっぱり聞いたことがない。もちろんラトニティアという国名も、だ。
 だというのに言葉が通じるのが不思議で仕方がない。日本のどこかにあるアミューズメントパークにいるのだと言われた方が余程納得出来る。
 だが、街を見渡すと、それだけでこの場所がかなり科学の発達した所であるらしいことが分かった。
 建築物は見たこともない青灰色の素材で出来た石で、街灯らしき明かりには電球は入っておらず、光がふよふよと浮かんでいる。看板は枠の間に、光の文字が浮かんでいた。SF映画で見かける、立体画像と呼ばれるものに見えた。
 その看板だけで、瀬奈にとっては充分カルチャーショックだ。
(何なんだろう、もう……)
 人通りの少ない街路をぽつぽつと歩きながら、泣きたくなるのを堪える。
(家に帰りたい……)
 暖かな光の灯った我が家が否応なしに脳裏をかすめた。
 
 パンッ パンパンッ

 その時、突然夜闇に鋭い破裂音がとどろいた。
「!?」
 ふいを打たれて、びくりと立ち止まる。
(な、何? 今の音…)
 すぐ右手の路地からだ。
 ついで、誰かが足音も荒く前方の路地から走り出てくる。
 驚きのあまり、瀬奈か身体を強張らせていると、眼前を黒い服装の男が走りすぎていった。瀬奈は目を見開いた。
 男の手に握られていたのは、銀色に鈍く光る――。
(銃っ!?)
 どうやら男は逃げることに必死で、幸いにも瀬奈に気付かなかったらしい。
 瀬奈は硬直したまま男を見送る。自然と体が壁際に寄った。
(ももももしかして、ここってアメリカのどこかにある国だとかそういうんじゃ…?)
 銃イコール米国という図式が瞬時に成り立ち、心臓をバクバクといわせながら口元に手を当てた。アメリカが一つの国であり、その中に国があるわけではないのだが、この時の瀬奈は酷く混乱していて、自分のおかしな考えにも気付かなかった。あまりの緊張に、静かな夜のはずなのに、空気が鼓動している錯覚を覚えてしまう。
「……うっ」
 途方もない考えを巡らしていると、路地から微かなうめき声が聞こえてきた。
(今度は何?)
 そっと路地に近づき、恐る恐るのぞきこむ。
「あっ」
 そこにいた人物につい声を上げる。
 昼間の少年が、右肩から血を流しながら路地の壁に背を預けて座っていた。
  
 
「……大丈夫?」
 逃げてきたばかりなものだから声をかけるべきか数瞬悩み、見てみぬふりも出来なくて、瀬奈は結局そう訊いた。
 少年――イオリは大儀そうに顔を上げ、瀬奈を認めて軽く目を見開いた。
「―――お前……」
 瀬奈がここにいることが意外だったのか呆然とつぶやき、痛みに顔をしかめる。
「何でここに、って言いたいんだったら。私、あそこから逃げ出してきたの」
 瀬奈はイオリの前にしゃがみこみ、きっぱりと言った。
「…………」
 イオリは黙り込み、瀬奈をまっすぐに見る。
「……やっぱりお前、スパイだったのか。俺をどうする気だ? とどめを刺そうってのか?」
 苦痛の為だろうか。イオリは切れ切れな口調で訊いてきた。息も荒い。傍目から見ても苦しそうだ。
 そんな様子で憎まれ口を叩くので、瀬奈は呆れてイオリを見る。
「あっきれた。まだそんなこと言ってんの? たまたま通った場所で、たまたまあんたが倒れてたんでしょうが」
「…………」
 まだ疑わしいのか、イオリはうろん気に瀬奈を見返す。
 イオリの態度をよそに瀬奈は灰色のネクタイを外し、イオリの傷口に右手を伸ばす。
「やっぱ応急処置って必要だよね? うわ、どうしよう。私したことないよ」
 そもそも、こんな風に血まみれで倒れている人にも初めて会うのだ。パニックに陥らないのが自分でも不思議だった。きっと暗くて傷がよく見えないお陰だろう。
 自身にそう言い聞かせ、瀬奈は痛まないようにそっと傷口に手を触れた。
「……えっ」
 その途端、温かい光が傷から溢れ出たのに驚いて傷口を凝視する。
 ゆっくりと血が止まっていき、やがて傷口が綺麗にふさがった。
「…………」
「…………」
 二人して目を見開き、無言で視線を交わす。
 これは一体どうしたものか。
 瀬奈は傷口と少年を見比べ、一つの結論にいたる。
「……ここの国の人って、自分の怪我を治せるんだ……」
「バッカじゃねえの」
 怪我は治ったがまだ顔色の悪いイオリは、ばっさりと瀬奈の結論を切り捨てた。
 むうと押し黙る瀬奈の前で「参ったな」と後ろ頭を掻くイオリ。
「あんた、ハティナーだったのか。面倒なことになった……」
「はてぃなあ?」
 聞き覚えのない単語に首を傾げる瀬奈。
 イオリは座り込んだまま呆れきった目をこちらに向ける。 
「……お前、この言葉も知らないのか?」
「知らない。何?」
 きっぱりと頷くと、イオリは真剣な顔で説明してくれた。
「ハティナーというのは、異能者のことだ。さっきの傷が治ったみたいな、不思議な力を持ってる奴のことをいう」
 へえ、と感心した瀬奈だが、イオリの言い回しに首を傾げる。今の言い方はちょっとおかしいような。
「……ちょっと待って。ってことは、さっきのはあんたが自分で治したんじゃないの?」
「当たり前だ。俺は普通の人間だからな」
「…………」
(こんな訳の分からない所に来て、普通じゃないって言われちゃったよ……)
 いろいろな意味でショックを受けていると、路地の奥から複数の足音が聞こえてきた。
 瀬奈はハッと我に返り、慌てて立ち上がる。
「じゃあねっ。怪我も治ったみたいだし、私帰るから!」
 また牢屋に入れられるなんてゴメンだ。死刑なんてもっとゴメンだ。瀬奈だってまだ死にたくない。
「……そうだ。最後に一つ訊いていい? 助けたお礼と思ってさ」
 そのまま走り出そうとしたところで立ち止まり、瀬奈はイオリを振り返る。
「何だよ?」
「日本にはどう行けば帰れるの?」
 イオリが変な顔をする。
「ニホン? ああ、さっきの妄想の国の名か」
「妄想じゃないわよ! でも、ここがヴェー何とかってとこってことは、つまり日本じゃないってことでしょ? 国際的には有名な国だし、分かるなら帰り方を教えて欲しいの」
 何でそんなことを言うのかと不審に思う瀬奈に、イオリはけげんな顔をして言った。
「ニホンなんて国は知らない。だから帰り方なんか知らねえ」
 イオリの返事に、瀬奈は思考が止まるのを感じた。


「知らないって、ここってアメリカじゃないの?」
「あめりか?」
「そう。だって、銃を撃ってたじゃない」
「銃を撃ってたら『あめりか』なのか?」
 瀬奈の問いに、イオリはますます眉を寄せる。
「うん。少なくとも私の中では、ね。うちの国じゃあんな物騒な物、持ってるだけで逮捕されるよ」
「銃を持つだけで逮捕なんてそんな馬鹿げた話があるか。……ともかく、ここは『あめりか』という場所じゃない。ヴェルデリアのフィースだ。昼間にも言ったはずだ」
 昼間と同じ問答になった為だろう、イオリの顔がどんどん不機嫌になってくる。
「…………」
(私、もしかしてとんでもない場所に来たんじゃ?)
 背中に嫌な汗が浮かんでくる。
 大体、夢ではないという辺りで気付くべきだった。「ここ」が「自分の知っている場所」なんかではないってことに。
「……いたぞ、イオリだっ!」
 呆ける瀬奈の耳に、唐突に声が飛び込んできた。大人の男性の、落ち着いた声。
 イオリの名前を呼ぶということはイオリの仲間か何かだろう。
 瀬奈は叫んだ声の方を振り返った。
 夜闇を照らし出す白いライトが目にまぶしい。
「逃げないのか?」
 路地の壁に背中を預けたまま。イオリが問う。
「……ここが日本じゃないなら、逃げたって無駄だもん」
 瀬奈は幾らか沈んだ声でぽつりと返答した。


「イオリ、良かった。無事だったのねっ!」
 二人の元に辿り着いたのは全部で三人だった。その中の一人――赤髪が緩やかにウェーブをえがいたセミロングの少女が嬉しそうな声を上げ、真っ先にイオリの元に駆けつけてきた。
「……全く、お前は先走りすぎだ。見ろ、案の定怪我してるじゃないか」
 緩やかに波打つ濃緑色の長い髪をポニーテールにした女性が、さばさばした口調でイオリをいさめる。二十代半ば頃で、薄暗くても結構な美人だとよく分かる。女性にしては低めの声だが、声の通りは良い。
「怪我はねえよ」
 渋面を作り、イオリは答える。ようやく立つ気になったのか、壁を支えに立ち上がった。
「何言ってる。服が血まみれじゃないか」
 女性が眉を寄せた。確かに、イオリの右肩から右腕にかけて血でぐっしょり濡れている。わけが分からないと思われても仕方はない。
「あれ、この女の子は?」
 さっきの落ち着いた声の男性が、瀬奈に気付いて振り返った為、会話は中断された。
 イオリは男性の質問にますます渋面になり、面倒臭そうに口を開いた。
「昼間に話した奴だよ。脱獄して、なぜかここにいる」
 途端にサッと三人に緊張が走る。
「あのスパイかもしれないと言っていた少女か?」
 女性が低い声で訊く。
「……ああ、でも違うみてえだ。ニホンから来たとかで帰りたいから道を教えろと言ってきたんだ。……それに」
「それに?」
 男性がイオリの言葉を反すうする。
「こいつ、ハティナーなんだよ。その癖、ハティナーが何か知らないらしい」
「ハティナーだって!?」
 男性が大声を上げる。
 その瞬間、男性は女性に後頭部を殴打された。
「痛っ!? ……何するんだよ、リオ!」
「うるさいよ。夜中に近所迷惑だろうが」
 リオと呼ばれた女性は、男性の抗議をさらりと流し、瀬奈に向き直る。
「で? あんたは何てハティンを持ってんの?」
「え?」
 何だか漫才コンビみたいだと傍観していた瀬奈は、リオの質問に慌てた。自分が変な力を持ってることをさっき知ったのに、その上また知らない単語が出てきたからだ。
「は、はてぃん……って?」
 恐る恐る訊くと、さっきみたいにイオリが呆れきった目をした。
「『異能』って意味だ。……一体どんな所から来たんだよ、あんた。常識だぜ?」
「……だーかーらー」
 瀬奈はカチンときて、大きく息を吸い込んで一気にまくしたてる。
「昼間っから何回も言ってるけど、私はこんな国も街も知らないってば! いい加減に覚えなさいよ、頭悪いんじゃないのっ?」
「何だと、てめえ」
 イオリもまた頭に来たらしい。形の良い金色の眉がきりきりと吊り上がっていく。
「そっちこそ、何回もここは夢でも『あめりか』でもないって言ってるだろ、いい加減に飲み込めよ!」
「…………二人とも?」
 突然始まった言い争いに、呆然と口を挟む男性。しかしヒートアップしている瀬奈とイオリは、当然のように彼を無視した。
「飲み込めたら苦労なんてしてないっ!」
 瀬奈は一際大声で怒鳴ると、イオリをギッと睨みつけた。その視線に僅かにたじろぐイオリ。それでも瀬奈は続けた。
「……何なのよ、いきなりスパイだとか死刑だとか!  いきなり牢屋に入れられて! 挙句の果てに、銃で撃たれたりなんかしてるし!」 
 言いながらだんだん涙がこみ上げてくるのが分かった。そしてイオリの表情に焦りが混じりだしてきていることも。
「誰がこんな物騒な所に来たがるもんですかっ!」
 最後に声の限りに叫ぶと、瀬奈は顔を両手で覆ってワッと泣き出した。
 怒りのあまり泣いているのか、悲しくて泣いているのか自分でも判断出来なかった。ただ、何もかもが限界だったのだ。
「えっ、おいっ?」
 ぎょっとして後ずさるイオリ。
「……あーあ。泣かしちゃったー」
 赤髪の少女が非難めいた視線をイオリに注ぐ。
「あれだけ強く言えばねえ。本当、女の扱いがなってない奴だ」
 うんうんと頷くリオ。
「……仕方ない。本部に連れて帰りますか」
 自分で追い詰めておいておろおろとしているイオリを横目に、男性が軽いため息とともに結論を下した。
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