フィースの街の西区は寂れた地区だ。元繁華街で背の高い建物が多く建ち並んでいるが、新しくショッピングモールが東区に作られてから大きく寂れてしまった。
そのせいで廃ビルが多い。中はがらんどうで静まり返り、使うのは浮浪者か犯罪者か。とにかく一般人は近寄らない。その代わり、警備隊が眼光を光らせる、一部にとっては特別な地区になっている。
その一角の狭い路地裏で、壁に付いた通気溝の網が一箇所取り去られてぽっかりと黒い穴を覗かせていた。
そこから前触れもなく子供二人と少年一人、そして少女一人がごそごそと這いずり出てきた。
「ぷはっ。埃臭かったー」
外の空気を吸うなり大げさにそう言って、瀬奈は大きく息を吐いた。
パイプの中を通るのは初めてだったが、あまり経験したくないものである。狭くて足や腕はぶつけるし、埃臭いし、良い所とはお世辞にも言えない。髪が短いから良かったものの、長かったら引っかかること請け合いだ。
「よし。行くぞ」
最初に出ていたイオリはすぐにそう声をかけてきた。不機嫌そうな表情の代わりに真剣な表情が浮かんでいる。
「俺一人でお前ら三人を保護するのはかなりきついんだよ」
瀬奈の疑問の視線を受け取って、言い訳するようにイオリは言った。
「いたぞ、こっちだ!」
そこに第三者の声が混じった。
イオリの表情がさっと強張った。もちろん瀬奈と双子のそれも。
瀬奈が声のした方を伺い見ると、あの糸目の男とがっしりした体格の男が慌てたように走ってきたところだった。
イオリはちっと舌打ちし、三人に声をかける。
「逃げるぞ!」
イオリの声を合図に、三人は男達とは反対方向の道へと駆け始めた。
並び立つ廃ビルの間を四人は必死で走っていく。
後ろからは〈オル&ダズ〉という呼び名の二人組が追いかけてくる。彼らはなかなか捕まえられないのに焦れて、糸目の方――イオリが言うにはこっちがオルらしい――が懐から黒く鈍光りする銃を取り出した。
「げっ」
それを目にしてイオリが顔を引きつらせる。狙い撃ちされてはたまらない。
「お前らとにかく走れ!」
イオリの言葉に、残り三人はこくこくと無言で頷いてとにかく走った。
パン!
銃声が響いて、瀬奈のすぐ側にあった廃ビルのガラスが割れる。
「きゃあ!」
瀬奈はあまりの怖さに一瞬頭を抱えて立ち止まりそうになったが、イオリに腕を引かれて何とか走った。
(あれって当たったら痛いのよね…?)
瀬奈は泣きそうになる。何だってここはこんなに物騒なんだろう。
「ねえ、お兄さんはああいうので対抗出来ないの?」
走りながらヨルが訊く。
今度はヨルのいる側の窓ガラスが割られる。
「ああいうのって?」
イオリはかなり下にあるヨルの頭を見下ろして訊く。
「だから! 銃だよ! お兄さんだって警備隊員なんだから一つくらい持ってるんでしょ?」
ヨルが声を荒げてそう訊いた途端、イオリは思い切り渋面になった。
「持ってるけど……」
そしてイオリは走りながら右太腿に吊っていたガンホルダーから銃を引き抜き、後ろに向けて撃った。
「ドン底に下手だ」
バリン!
イオリの宣言通り、イオリの撃った銃弾は後方の二人を掠めることもなく、なぜか全く違う方向にある街灯を直撃した。
「うわーん! イオリの馬鹿――!」
「役立たずー!」
「役立たずー!」
瀬奈が半泣きで叫び、双子が声を揃えてイオリを罵る。
「だーっ! うるせえぞ、お前ら!!」
イオリは大声で三人に抗議の声を上げる。恥ずかしかったのか、頬が赤くなっている。
「俺は機械専門なの! 銃は隊長と副隊長に任せとけばいいんだよ!」
イオリの怒鳴り声に、三人は「だから役立たずなんじゃん」と口をとがらせる。イオリは少しばかり沈んだ表情になった。
「あ! お兄さん、どうしよう。行き止まりだよ!」
しかし、ヒルの上げた悲鳴に近い叫び声に、イオリははっと我を取り戻す。
「ちっ。これまでかよ……」
イオリの悔しげな声を聞きながら、瀬奈は青灰色をした石製の手すりに手を乗せて下を覗きこんだ。二階分くらい下は通りになっているらしい。灰色の舗装路面が見えた。瀬奈達がいた廃ビルは大通りよりも高い場所に立っていたようだ。周りに人影は見えない。
「どうするの…?」
逃げるのが難しい状況なのは確実だ。瀬奈が不安をこめて問うと、イオリは難しい顔付きで答える。
「どうするもこうするも、捕まるのがオチだな。お前らは」
「お前らはって、じゃあイオリは?」
聞き返す瀬奈に、あっさりとイオリは返答する。
「そりゃ、ま、殺されるだろ普通は。俺、警備隊員だぜ?」
それもそうだ。犯罪者の敵である彼が無事に済む訳がない。
「ったく、ちょろちょろ逃げやがって。覚悟しろよ、お前ら……。特にそこの金髪! 舐めた真似しやがって」
追いついてきたオルが肩で息をしながら苦々しく言った。その後ろにはがっしりした体格のダズという名の男が無言で立つ。それだけで威圧感が増す。
オルは銃を構えると、イオリに向けて撃った。
ガツッ
嫌な音がしてイオリの足元の地面がえぐられる。
瀬奈はさっと顔を青ざめさせた。そしてガタガタと身体が震えるのを、手を強く握り締めることでこらえ、ぎゅっと唇を噛み締めてイオリの前に立つ。
「やめてよ! あ、あんた達が用があるのは私達なんでしょ? この人は関係ないじゃない!」
「おい……っ」
真っ青な顔でオルとダズを睨みつける瀬奈に、イオリは慌て気味に声をかける。
「怖いくせに何言ってんだ。後ろに下がってろよ」
イオリは瀬奈をどかそうと肩を掴んできたが、瀬奈はぶんぶんと首を横に振って拒否した。
一方、その様子を見て、オルがにやにやと意地の悪い笑みを浮かべる。
「はん、世間知らずの嬢ちゃんでも状況は飲み込めるか。庇うなんて全く麗しいこって」
「……っ」
銃を構えたまま近付いてくるオルに、瀬奈は心持ち後ずさる。
(どうしよう、ものすごく怖い。でも……)
瀬奈は後ろにいるイオリを思い出し、ぐっとその場に踏みとどまる。
(お世話になった人、死なせるなんて嫌だ!)
ぎゅっと唇を引き結んで、瀬奈は近付いてくるオルをキッと睨み続ける。オルは全く相手にせず、足を止めない。躊躇のない足取りで、ゆっくりと近付いてくる。それと比例して瀬奈の中に焦りが浮かぶ。
しかし、あと三メートルという所で、突然男の身体が後ろに吹っ飛んだ。
「え?」
驚いて目を瞬く瀬奈に、ヒルがにっこりと笑いかける。
「私、〈水〉のハティナーなの」
見れば、ヒルの右人差し指がオルに向けられており、彼は水浸しになって地面に倒れていた。
「さ、今よ。ヨル!」
「オーケー!」
ヒルの合図にヨルは頷く。
そして右手を軽く振った。
その瞬間、足元から風に巻き上げられ、四人は下の通りへと放り出された。
「へ?」
一瞬何が起こったのか分からなかった瀬奈は呆け、そして両目いっぱいに広がった空と下に引っ張られる重力の存在に気付いてようやく悲鳴を上げた。
「きゃー!?」
そのまま地面にぶつかるかと思ったところで、再び下から風に巻き上げられてガクリと体勢が戻り、瀬奈の身体はすとんと地面に座り込むように降りた。
瀬奈は身体中をばっと手で触り、呆然と言葉を漏らす。
「……痛くない」
「当たり前でしょ。痛くないようにしたもん」
気が付けば目の前に立ったヨルが悪戯めいた笑みを浮かべて、地面に座り込んだ瀬奈を見下ろしていた。
「もしかして、今のあんたが……?」
「うん」
瀬奈の質問にきっぱりと頷くヨル。
「あ……、ありがとう。助かったのよね?」
「そうよ。ほら、あそこでおじさんが悔しがってる」
愉快げに笑むヒルの声につられるように上を見れば、なるほどオルが上から悔しそうに何か叫んでいた。
「でも一応安全な所まで逃げるぞ。ほら、立てるか?」
「え、ああ。うん…」
イオリの差し出した手に掴まって瀬奈は立ち上がる。
そして四人はそのまま第五警備隊本部へと走り出したのだった。
「セナ、無事でよかった!」
第五警備隊本部に着くなり、入り口のすぐ外で待ち構えていたカエデが、瀬奈を見つけるやガバリと抱きついてきた。
「怪我はない? そう、良かった。全くもう、イオリからあの〈オル&ダズ〉に捕まってるって聞いて、心臓が止まるかと思っちゃったわ……」
「は、はあ、どうも…」
まさか抱きつかれるとは思わず目を白黒させながら、瀬奈は意味の分からない返答をする。
カエデは瀬奈から離れたものの、信じられないとばかりにイオリをにらみつける。
「しかもイオリってば、応援も申請せずに潜りこんじゃうし!」
「迷子だと思ってたら思わぬ大物が出てきたんだろ!」
「分かった時点で引き返すべきよ。あんただけじゃなくて保護対象まで怪我したらどうするのよっ」
カエデの言い分はもっともだ。イオリは不満げながら口ごもる。
二人の会話を横で聞いていた瀬奈は、ふと疑問を感じた。
「ねえ、そういえば、イオリって、どうして私があそこにいるって分かったの?」
瀬奈の質問に、なぜかカエデがぎくりと固まる。
「ああ、それか……。それはカエデが……うがっ」
正直に答えようとしたイオリめがけてお盆を投げつける。憐れにも、イオリは床に倒れたが、カエデは気にせずにうふふと笑う。
「いいのよ、そんなこと気にしなくて。警備隊の勘よお」
「……? そうなの?」
そんなものなのかと首を傾げる瀬奈に、カエデはひとしきり可愛らしく笑う。
「あら、その子達はどうしたの?」
そしてふと瀬奈のすぐ側に立っている瓜二つの子供に気付いて、床で半身を起こしたイオリがカエデを恨めしげに見ながら答える。
「……そいつらも捕まってたんだよ。えーと、そっちがヨルでこっちがヒル。風と水のハティナーらしい」
お盆の当たった額を軽くさすりながら立ち上がり、イオリはむっつりと答える。
「そうなの? 双子でハティナーなんて珍しいわね。二人とも、お家はどこかしら? 送っていくわ」
カエデの申し出に双子は顔を見合わせ、声を揃えて答える。
「「第六研究所」」
「あら、ご両親は科学者なの?」
双子の返答にカエデは目を丸くする。
しかし、双子は「違う違う」と首を振った。
「僕達、両親いないんだ。小さい頃に離婚してさ」
「お爺さんのとこにお世話になっているの」
「「僕達が科学者なんだよ」」
ヨルが言い、ヒルが言い、最後には口を揃えて二人は言う。
「か、科学者〜??」
瀬奈は信じられないと目を見開く。
「そうだよ。これでも立派な研究員なんだ」
ヨルの言葉に瀬奈は「ああ、だからそんなに頭良いのね」と納得する。
「バーカ。頭良いなんてレベル越えてるぜ。第六研究所っつったら国立研究所の一つだからな、相当良くなきゃ入れもしない」
イオリが馬鹿にしたように言うのを、瀬奈は怒る前に呆れてしまった。
「ええ、じゃあ二人とも『天才』なの? すごーい。こんなに小さいのに偉いんだね」
瀬奈がよしよしと双子の頭をなでると、二人はぽかんと口を開けた。まるで珍獣でも見るかのように、信じられないものを見る顔をして瀬奈を見つめ、呆然とつぶやく。
「僕達のこと、そんな風に言ったの、お姉さんが初めてだよ……」
「いつも『気味悪い』としか言われないのにね……」
双子は顔を見合わせ、それから突然くしゃりと顔を歪め、ぽろぽろと涙を零して泣き始めた。
「ええ? どうしたのっ? 私、何かひどいこと言ったっ? 言ってたらごめんっ」
驚いて慌てて謝る瀬奈に双子はがっしりと抱きついた。
「???」
瀬奈は訳が分からなかったが放っておくことも出来ず、おろおろと二人の背中をなでる。
「謝んなくていいよ……」
「そうよ、私達、嬉しいの……」
そう言ってますます泣く二人に、瀬奈は別の意味で泣きたくなってくる。何しろどうして泣き始めたのかも意味不明なのだ。
困り果てている瀬奈にクスリと笑い、カエデは大きな声で言う。
「さ、事件もどうにか片付いたみたいだし。中に入ってお茶にしましょ。二人も中へどうぞ。保護者に連絡するわね」
カエデの言葉に、双子はグズグズと泣きながら頷き、瀬奈も助かったとばかりに頷いた。
*
(ほんと変な奴だよな……)
第五警備隊本部に入っていく瀬奈の後ろ姿に視線を投げ、イオリはしみじみと思う。
泣いたり怒ったりとくるくる表情を変えるは、誘拐されるは、偶然出くわした双子に好かれるは。こんな変な奴、滅多にいないだろう。
(知らないからこそ、かな?)
あの双子のように国立研究所に十代の半ばよりも前に入る人間なんて、末恐ろしいところであり、明るく誉めるところではないのだ。本当は。
(まあ、別にいいか)
イオリは馬鹿馬鹿しいと暗い考えを打ち払う。
(結局は皆人間ってことだよな)
むしろあの少女の言ったことはあの二人には良い結果をもたらしたわけで。つまりそれ以上言えることなんてないのだ。結局のところ。
(ま、怖がりながら人かばってる辺り、普通じゃねえのかもな)
イオリはふっと嘆息して、それから本部へと入っていった。
瀬奈の世話役を任せられた辺りから、イオリに静かな毎日など保障されないということには全く気付く由もなかった。
*
「ねえ、お姉さん。僕達、今度遊びに来て良い?」
双子が迎えに来た祖父とともに帰ろうとしたところで、ヨルがこちらを伺うように訊いてきた。
「うん、もちろんいいよ。それにお姉さんじゃなくてセナでいいよ」
瀬奈はこの子達も子供なのよね、と会ったばかりの時の頭の良さと口の回り方からは想像もつかなく大人しくなった双子に、妙な感心を覚えて言う。
瀬奈の返事に双子は途端にパッと顔を明るくして、「じゃあセナ、またね!」と嬉しそうにぴょこぴょこ跳ねながら、老人が運転してきた空遊車に乗って帰っていった。
「可愛いな〜」
瀬奈が頬を緩ませて見送っていると、すれ違いにフォールとリオが本部に帰って来た。
「おや、さっきの子達はどうかしたのか?」
フォールの質問にカエデが今まであったことを二人に説明した。
「〈オル&ダズ〉だと……? あの小物が……」
話を聞き終えたリオは暗い表情になって低く唸るようにつぶやいた。
「あの……?」
あまりの怖さに無意識に後ずさる瀬奈。
ソファーにだらしなくもたれかかっていたイオリもいつの間にか背筋を正している。
リオはどこか猛獣じみた黒い笑みを浮かべ、瀬奈の肩を軽く叩く。
「瀬奈、安心しろ。お前の敵は私が取ってやるからな」
「はあ……」
「我々第五警備隊の保護しているハティナーを狙うなど、言語道断! 喧嘩を売っているとしか思えない! すぐさま報復せねば!!」
そう一人でヒートアップしたリオは宣言を言い捨てると、一階奥の部屋へと姿を消した。
「あーあ、リオを敵に回しちゃったよ。あの二人も可哀想にねえ」
止めた方がいいのかなとか、でも止める自信ないやとかぐるぐると考えていた瀬奈の後ろで、苦笑交じりにつぶやくフォール。フォールは言葉では気の毒がっているが、まったくそう思っていないのが態度から丸わかりである。
イオリとカエデも気の毒そうに視線をかわしている。
(……これがイオリの言ってた『個性的』なのかな?)
もしかしてとんでもない人達とお知り合いになったのかなと、その日のうちに〈オル&ダズ〉が逮捕されたというニュースを翌日に聞き、瀬奈は思わず背筋がぞっとしてしまったのだった。