白浄花の輝き編 第二部 再会

六章 異世界と自世界の違い 

 異世界に来て二日目にして、とんだ災難に巻き込まれた瀬奈であったが、その一週間後になって途方もないことが発覚した。
「字が、読めない……」
 重い影を背負うようにうなだれ、瀬奈は第五警備隊の面々に白状した。
 その瞬間、受付とも待合室とも言う第五警備隊のリビングに一瞬沈黙が落ちた。
「え? 今更?」
「こら、イオリ! ええと、言葉は通じてるのにね」
 イオリが今になってやっと気付いたのかと呆れると、フォールが落ち込む瀬奈を気遣うように首を傾げた。
 瀬奈は新聞を力なくぶら下げた格好でこっくりと頷いた。
「いや、そういえばね。地図を見せてもらった時とか、外で見た看板とか、見たことないロゴが書いてあるなあとは思ったの。でもあれが文字だったなんて……!」
 ここ一週間、瀬奈は街や国の仕組みだとかに慣れるのに必死でそれどころではなかったのだ。だが、ようやく落ち着いてきたので元の世界に戻る方法でも探すかと、とりあえず手近にあった新聞を手に取ってみたのだ。
 そこでようやく、まるで暗号文のような言葉が羅列しているのに気付いたのである。
「言っとくけど、俺は文字まで面倒みきれないからな」
 イオリは容赦なく言った。先に発言しておかなければ、世話役だけでなく文字の教師役まで押し付けられると思ったらしい。
 途端に瀬奈は情けない顔付きになる。
「そう言わずに教えてよー。じゃなきゃ元の世界に帰ろうにも帰り方すら探せないのよう」
 じわーっと涙目になって訴えると、イオリはうっと息をのんで後ずさった。だが、負けるかというように首を横に振る。
「駄目駄目、そんな目で見ても無駄だからな。俺は忙しいの。機械整備とか探査装置の掃除とか、警備ロボの点検とか、とにかく仕事が山積みなんだよっ」
 イオリの言葉に、瀬奈はパッと顔を輝かせる。
「ええっ、ロボットなんているの? そんなの初耳だよ。それに何でイオリ、そんなに機械関係の仕事ばっかなの?」
「前に言っただろ。俺の専門は機械だって。俺は機械士なんだよ。それからロボットのことだけど、この街は一番田舎だからロボットはあんまり支給されてないの。俺が点検するのは中古だよっ。悪いかっ」
 イオリは一気に言い切って、最後に不機嫌そうに眉をしかめた。
「なっ、誰も悪いなんて言ってないじゃないっ。そもそも、ここの街も充分都会よっ。私の国にはロボットなんて街中じゃ見かけることすらないんだから。すごいじゃない」
 途端に室内の面々の目が点になった。
「ロボットが、街中にいない……? いったいどんなド田舎だ」
 くらりと眩暈がした様子でリオがつぶやいた。
(こっちの世界の方がかなり科学技術が発展してるんじゃないかって思ってたけど、やっぱりそうみたい)
 瀬奈はむうと考え込み、やっぱりここで暮らしていくには文字が必要だと強く感じた。大体、ロボットなんて面白そうだし。ちょこっとくらい仕組みを勉強してみたい気もする。
 瀬奈は真面目な顔になり、イオリをじっと見つめる。
「ねえ」
「駄目だ」
 だが、何か言う前に拒否された。
 瀬奈はむっとする。
「まだ何も言ってないじゃない」
 しかしイオリは駄目だ駄目だと首を振るばかりだ。
「俺は、ぜーったいに教えないからなっ。文字を習いたいなら他の奴に頼め」
 そしてそこで時計を見て、(瀬奈には何が書かれているかも分からないのだが)、あっと叫んだ。
「いけねっ、このままだと今日のノルマが終わらねえっ。じゃ、そういうことだから他の奴頼むな」
 そう言い残し、バタバタと部屋を立ち去っていくイオリを恨みをこめて見送り、瀬奈はくるりと残りのメンバーを振り返った。
 ――その瞬間。
「あ、私、治療器具の点検しなきゃっ」
「私も巡回の時間だったな」
「僕はこの前の調査記録まとめないと…」
 カエデ、リオ、フォールはそれぞれ忙しそうにつぶやいて、そそくさとリビングを出て行ってしまった。
 一人残された瀬奈はぷくーっと頬を膨らませる。
 瀬奈は瀬奈なりに彼らに頼りすぎている自覚はあったし、それなりに迷惑をかけたくないとも思っていた。だが、こればっかりはこの世界の人に手助けして貰わなくては難しすぎる。
 瀬奈は手に持った新聞を見下ろし、やっぱり謎の暗号が連なっているのを目にして、重いため息を吐いた。
「ああ、もう……。他に知り合いいないしなあ」
 一人ごちて、肩を落としていると、来訪者が現われた。
「こんにちは、セナ! 遊びにきたよっ!」
「あれ? 何落ち込んでるの?」
 警備隊本部の入り口からひょっこりと、この前の双子が顔を出した。
「こんにちは。えーと、何でもないのよ……」
 瀬奈は挨拶を返して首を振りかけたが、そこでハッと名案が浮かんだ。
「ねえ、あんた達って確かかなり頭が良いのよね?」
「「うん、そうだよ」」
 一瞬の迷いもなく、きっぱりと頷くヒルとヨル。
 瀬奈はよし、と気合を入れ、二人に向かってぺこりと頭を下げた。
「お願いしますっ。私に文字を教えて下さいっっ」
「「……へ?」」
 瀬奈の頼みに、双子は間抜けな顔で首を傾げた。

          *

 大きく開け放たれた窓から、涼しい風が入り、カーテンをふんわりと揺らす。
 ヨルはソファーにもたれ、カエデに用意してもらったオレンジジュースを飲む。行儀が悪いが、瀬奈はヒルに文字を教わるのに必死で気付かない。
「まさかセナが『空落人』なんてな。道理で世間離れしてるわけだよ」
 ヨルは呆れ混じりに呟いた。
 瀬奈が事情を話すと、ヨルとヒルはまず冗談だと疑った。だが瀬奈が真剣だと分かるや、携帯端末器に幾つかの国の文字を瀬奈に見せた。どれも知らないと瀬奈が答え、代わりに瀬奈の国の言語を紙に書くと、ヨルとヒルは面白そうだと食いついた。
 その後、それぞれの手持ちの端末機で、瀬奈の文字と同じものを探したようだが見つからず、更には文字体系が複雑すぎるという特徴があるのに一致するものがないとなると、瀬奈の話が真実であるという答えが一番納得がいく、というところに結論が落ち着いたのだ。
 念の為にと彼らから一般常識を質問されたが、瀬奈はことごとく答えられず、もしや精神病扱いかと不安になっておろおろし始めたところで、双子の質問責めは終わった。
 彼らの質問の中には、ザナルカシアの今の文明の中では、生まれた時から閉ざされた集落で暮らしでもしない限りは知らないのが変という内容も含まれていたらしい。
 双子は、正しい名称が分からないので、仮称として空落人と呼ぶと宣言した。仮称だろうがなんだろうが、文字を教えてくれるんならそれでいいやと瀬奈は深く考えるのはやめた。質問の嵐で、頭痛を覚えたせいだ。
 今は、ヒルが瀬奈に文字を教えてくれている。
「ああ、違うよセナ、そこはそうじゃなくてこう…」
 瀬奈は真剣な顔付きで、ヒルの綺麗な文字(たぶんそうだと思う)を見ながら、ミミズののたくったような、文字だかよく分からない文字を書きつづっていく。
 とても真剣な瀬奈の様子に、双子は顔を見合わせる。
「でも、何だってそんなに真剣に文字を覚えようとしてるのさ?」
 ヨルの質問に、瀬奈は即答する。
「元の世界に戻る為よ、もちろん」
 双子は分からない、という顔になる。
「何で文字を読めることが元の世界に戻ることに繋がるの?」
 ヒルの質問に、瀬奈は何を言い出すの、という表情で顔を上げた。
「だって、資料調べたくても読めなかったら話にならないでしょ?」
「「それもそっか……」」
 双子はそうだよね、と同時に頷いた。
 方法を探そうにも、方法が「読めない」のでは全く意味が無いだろう。
「でもなあ、セナが帰っちゃったら寂しいな……」
 ヒルは顔をうつむかせてつぶやく。
 瀬奈は予想外の言葉にぎょっと目を丸くする。それからどことなく気まずい思いに囚われた。
「え……と、そんなに落ち込まなくても。そんな、すぐに帰るわけじゃないし……」
 瀬奈はあちこち視線を流しながらしどろもどろに言う。
 そう言ってみてもやはり、地球に帰るとなったらもうこの双子には会えないわけで。それよりなにより寂しいと思ってくれるということが胸をついた。
「あ、ごめんね。セナ。私、困らせるつもりじゃ……」
 ヒルが慌てて謝るので、瀬奈はぶんぶんと首を横に振る。
「いいよ、そう言ってくれると私も嬉しいから。ほら、さっさと帰れって言われるより断然気持ち良いでしょ?」
 瀬奈が笑っていうと、それもそうだと二人も笑った。
「じゃあ僕達、瀬奈が帰るまでにいっぱい遊んでおくよ」
 ヨルが言い、ヒルも「私も!」と返す。
「うん、いっぱい遊ぼう」
 瀬奈は照れたように笑い、それからちょっと真面目な顔になった。
「でも、その前に文字の勉強するね?」
 瀬奈の確認に、双子は明るく笑って頷いた。


 その日から、瀬奈は起きたらすぐに文字を勉強し、寝る前までせかせかとひたすら勉強、という生活を続けていた。
 勉強が苦手な瀬奈からすれば、かなり頑張っているといえる。
 そんな生活が一ヶ月程続いた頃、瀬奈は自室の机でやはり同じように綴りの練習に明け暮れていた。
「うーん……、何とか見えるようにはなってきたかなあ」
 瀬奈は自分の練習した成果である「作品」を、唸りながら目の前に掲げてみせた。
 一ヶ月の努力と、双子と外に出かけて習ったりした単語のお陰で、どうにか簡単な、本当に簡単な単語なら読めるようにはなってきた。
「でも、すごく下手なんだろうな、この字」
 瀬奈はつぶやいて盛大に顔をしかめ、ばたりと机に倒れこむ。
「あーもー、なかなか上手くいかないよー」
 そうしてバタバタと両足を振ってひとしきり暴れ、疲れたように窓の外に視線を投げかける。
 外はすっかり藍色に染まっている。勉強を始めたのは夕食後でまだほんのり明るかったから、だいぶ時間が経ったらしい。
「ふう」
 瀬奈は小さくため息を吐き、机に肘をついて頬を支え、練習用の紙の隙間に何気なくらくがきを始めた。
 最初はただの円だったのが、そのうちに顔の輪郭になり、髪がついて、顔が出来上がった。
 それを三つ描いて、更にため息を吐く。
「お父さん、お母さん、拓斗……」
 その三つの顔は瀬奈の家族の人物画をあらわしていた。とても上手だ。
「はあ……、いつになったら帰れるんだろう……」
 瀬奈は力なくつぶやいて、ぱたっと机に頬を預けた。それからしばらくすると、そこから微かな寝息が聞こえてきた。

          *

「「お早う!」」
 翌朝早く、ヒルとヨルは第五警備隊の本部を訪れた。
 まだ隊員は朝食前という早さである。
「お早う。どうしたの? 今日は早いのね」
 朝ご飯を作りながら、カエデが振り返って訊く。
「うん、今日はたまたま暇だったから早く来てみたんだ」
 ヨルは言いながら食堂を見回す。
「セナは? まだ起きてない?」
「ええ、でももうそろそろ起こさないと。セナって寝起き悪いから」
 カエデは困ったように、けれどどこか面白そうに言った。
「へえ、何か意外。朝から元気って感じするのに」
 ヒルは濃緑色の目を少し丸くした。いつも明るくてにこにこと微笑んでくれる瀬奈が、朝に弱いなんてヒルには予想外だった。
「目が覚めたらね、元気なんだけど。起こしてからちょっとぼーっとしてるのよ。低血圧なのかしらね」
 言ってカエデは可愛らしく小首を傾げる。
「ふーん…」
 ヨルは両腕を頭の後ろで組んだ姿勢でつぶやいて、それから名案が浮かんだとばかりに顔を輝かせた。
「何か面白そうだから、僕達が起こしてくるよ」
「ヨル、ナイス!」
 ヒルもまた顔を輝かせる。
 そんな双子を見下ろして、カエデはふっと微笑む。
「別に構わないけど。驚かしちゃ駄目よ」
 カエデの言葉に、双子は声を揃えて返事した。
「「はーいっ」」


「セナー、朝だ、よ…?」
 瀬奈の部屋の扉を開け、呼びかけようとした格好で、ヨルとヒルはぎくっと動きを止めた。
 ベッドでぐっすり眠っているのかと思えば、瀬奈がいたのは机の上で。
 しかも勉強の途中で寝てしまったのがありありと分かる様子だった。
 双子は起こすか迷って顔を見合わせた。
 勉強疲れで眠っているのなら、起こさない方が優しいと思えたのだ。
 二人は忍び足で瀬奈の机に近付いた。
「あれ? ねえこれ見てよ、ヨル」
 机の上の紙に目を止めて、小さな声でヨルを呼ぶヒル。
「何?」
 呼ばれたヨルは、ヒルの手元をそっと覗き込んだ。
 練習用の紙に、人物画が描かれている。…上手だ。
「すごい。セナって絵が上手なのね」
「ほんとだね」
 そこで双子は顔を見合わせ、悪戯めいた顔になる。
「折角だし…」
「もらっちゃう?」
 二人は同時ににやりと笑い、紙をそっと取ってポケットに入れる。
 後で瀬奈が気付いたら返そうと、心の中でにやにや笑う。二人とも、こういうところはまだまだ子供のようだった。
 そしてその後瀬奈を起こすことに決め、二人は同時に大きく息を吸った。

「「朝だよーーー!」」


「ひゃあっ、何何っっ??」
 当然、驚いた瀬奈が椅子から転げ落ちたことは言うまでもない。

「ああもう、だから驚かしちゃ駄目って言ったのに…」
 二階からゴスッという物凄い音が響いてきたのに、料理をしながらカエデは困ったわね、とため息を漏らした。まああの二人ならやりかねないとは思っていたが。
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