白浄花の輝き編 第三部 逃亡

十六章 ツェルと明美 

 ネオ・オルティガは地下都市だが、科学の推移をふんだんに使っている為、一見すると地上とあまり変わらないように見える。
 ドーム型の天上には立体映像で朝から晩まで空の景色が投影されているし、一部には植物も植えてある。
 しかし、それが実は上流階級の地区のみであると、ツェルは知っていた。
 ドームの端の地区である住居区Gなど、ほとんどスラム街と同じだ。ただ、雨が降らないから夜露はしのげるけれど、ツェルの身長くらいの高さがある換気用のプロペラが耐えずギシギシと大きな音を立てて回っている。こんな所に住んでいては、すぐに耳がおかしくなるだろう。
「こんにちは、皆さん」
 ツェルは住居区Gで寝起きし、職がない為に痩せ細っている彼らを初めて目にしてからというもの、上司や同僚達の目を盗んではやって来ていた。顔が見えないように頭からすっぽりとボロ布を被り、両手に食料を携えて。
 幸いなことに、住居区Gに住んでいる人間数は少ない方だ。それでも二十人はいるけれど。
「神官様がいらっしゃったぞ」
 誰かがそう呼びかけ、他の住人もぞろぞろとやってくる。
「お早うございます。皆さん、お元気そうで何よりです。あの、これ、僅かながら食料を持ってきました」
 ツェルが紙袋に入った食料を差し出すと、最初に声を出したらしい老婆がありがたそうに祈りを捧げ、紙袋を受け取った。
「ありがとうございますじゃ。神官様のお陰で私らはどうにか生き延びているようなものです」
「そんな。僕に出来ることをやっているだけです。もっと手助けしたいのに……」
 ここにいるのは年老いて仕事が出来なかったり、障害を持っているが身寄りのない者達ばかりだ。人数が少ないのは、都市にいた高齢層のほとんどは石化病で死んでしまったせいだ。
 しょんぼりとうなだれるツェルに、片足が動かない男性がぽんぽんと肩を叩いてきた。
「あんたは優しい人だな。大抵の神官は俺達のことなんて見捨てるもんだ。そういう奴がいるだけで、俺達は嬉しいんだ」
 笑顔をくれる男性に、ツェルはいつものように涙腺がゆるんだ。
「ありがとうございます」
 泣きそうな顔をして頭を下げると、他の住人達が笑い出した。
「ほんとにお前さんは泣き虫じゃのう」
「神官のくせに情けないですよ」
 色々野次が飛んでくるが、ツェルは嬉しそうに笑った。ツェルにとって、彼らと過ごす時と、図書館にいる時が一番楽しい時間だった。
 ここの人たちはとても優しい。
「さて、では食事を分けましょうかねえ」
 老婆が言い、皆頷いた。
 ツェルは微笑んで、小さく祈りの言葉を捧げる。
「どうか優しいあなたがたに、優しき闇がいつも共にありますように」
「あんたにもね、小さい神官さん」
 聞こえていたのか、住人の誰かが茶化すように言った。
「はい、ありがとうございます」
 にこりと笑って、ツェルは頭を下げた。

* * *

 住居区Gを出た後、ツェルは明美を探す為、中央広場に向かうことにした。
 途中でボロ布を脱ぎ、鞄に押し込む。ツェルの銀髪と女性的な顔立ちは大層目立つので、こうでもしないと住居区Gに近寄ることすら出来ないのだ。
 住居区Eまで来たところで、モノレールに乗り、一気に住居区Aまで行き、そこから広場に徒歩で目指す。その途中で花屋に寄って小さな花束を買い、また道程を進んだ。住居区Aからは高い壁に囲まれた城が見える。壁の向こうは王族が住むエリアだ。
 城はいつ見ても美しかったが、底辺で暮らす人々を知っているだけに良い印象はあまりない。
 ツェルは城壁から目を反らし、緑に溢れた広場に足を踏み入れた。


 広場では、前と同じ噴水の台座に腰掛けて、明美が本を読んでいた。
 ここにいたことに、ほっと安堵の息を吐くツェル。花が無駄にならずに済みそうだ。
「こんにちは、アケミさん」
 緊張のあまり口を開けたり閉じたりし、十秒後、どうにかそう声をかけることができた。
 明美が本から顔を上げる。どこか遠くで澄んだ鈴の音が聞こえたような錯覚を覚えた。それくらい清涼とした空気が流れている少女なのだ。
「…ああ。こんにちは」
 明美は誰か確認し、ぽつりと返答した。
「こちらにいて良かったです。…ええと、これ、昨日のお礼です…」
 ツェルが花屋で買った花束を差し出すと、明美は僅かに目を見開いた。
「別に、お礼なんていいのに。でもまあ、ありがとう」
 明美は少し迷ったように花束を見つめた後、大人しく受け取った。明美だって女だ。花は結構好きである。
 明美は少し花束を見下ろして考え込んだ後、ツェルを見た。明美はただ見ただけなのだが、ツェルはじろりと睨まれたように見えて僅かに緊張する。
「これ、一緒にどう?」
「え?」
 明美の差し出したものを、ツェルはまじまじと見た。クッキーの入った瓶だ。どこからどう見ても。
「……クッキーがそんなに珍しいの?」
 明美に怪訝そうに訊かれ、「あ、いや、そういうわけじゃ」ツェルは慌てて首を振った。
「そう。じゃあ。はい、食べれば?」
「…………」
 もう少し柔らかい言い方もありそうなものだが、好意は受け取っておこうと思い、ちゃっかり明美の隣に腰掛けるツェル。
 瓶からクッキーを一つつまんで、口に放り込む。
 その様子を見て明美はふいにぽつりと言う。
「……あなたって何だか瀬奈みたいね」
「へ? ――せな、ですか?」
「うん、幼馴染みなのよ。まああいつに比べたら、あなたの方がよっぽど静かだけどね」
「はあ」
 そう言われても、ツェルには想像がつかない。無意識に間の抜けた返答をする。
(というか人の名前なのか)
 聞き慣れない発音なので、人名と分からなかった。
(空落人ってほんとなのかな……)
「そういえばあなた歳はいくつなの? 結構下に見えるけど」
 そう言う明美の背は、ツェルより頭半分程高い。
「十五歳です。…そんなに年下に見えます?」
 自分が極度の童顔だと理解しているツェルは、情けない顔になった。
 女性的な顔立ちで、童顔。男としては最悪だ。
「嘘。一つ下なの?」
 案の定、明美は信じられないとばかりに目を丸くした。
「てっきり十三歳くらいかと…。―――ごめん」
 ついつぶやいた言葉で、ツェルがずがんと落ち込んだのを目にして、明美は謝った。
「いえ、いいです。慣れていますから」
 そう言う割にすっかり肩を落としたまま、ツェルは言う。
(ああ、でも一つ年上なのか)
 大人びているのに、それだけしか変わらないことに少しだけ希望が見える。…って、何の希望なんだろう、これは。
「そんなに気にしなくても、きっとすぐに伸びるわよ」
 一人突っ込むツェルに、明美は同情から励ましの言葉をかけた。
「そうですよね。頑張ります」
 笑顔で答えるツェルに、明美の脳裏を、瀬奈の弟の拓人が一生懸命牛乳を飲んでいる姿がよぎった。
 ツェルはふと、明美の手にしている本を見て「あれ」とつぶやく。
 意外なことに児童向けの本だったのだ。
「文字の勉強中なのよ。この国の童話みたいね」
 明美の返答に「ああ、なるほど」と頷くツェル。
「何でそんなことしてるか訊かないの?」
「アケミさんって、空落人なんでしょう? だったらそんな質問は無粋ですよ」
 あっさり言うツェルに、明美はちらりとツェルを見た後、無感動に「知ってたの」とつぶやいた。
「はい。神殿で噂になってて…。アケミさんみたいな変わった名前の方は、上流階級の一部くらいなのですぐ気付いたんです」
「やっぱり噂になってるの。そう……」
 明美は面白くない気分でつぶやいた。誰かに一々噂されるのが嫌いなのだ。
(これが学校だったら、直接文句言うんだけど)
 内心溜息を吐く。そんなことばかりしているので、学校では一人でいることが多かった。瀬奈がやって来る時は別だ。あの子はどれだけ毒舌を吐いても、怒って帰って、翌日にはケロリとしているのだから。よくめげないものだと、小さい頃から妙に感心している。
「空落人なんて、千年ぶりですから。嫌でもそうなりますよ」
 そう取り成すツェルをちらりと無感動に見る明美。
「……そうでしょうね」
 明美は肯定し、本を持ってすくっと立ち上がった。
「私、そろそろ帰る。教師が来る時間だから。じゃあね」
「えっ、あの、これ忘れてますよ!」
 さっさと歩き出す明美の背中に、ツェルは慌てて声をかける。クッキーの入った瓶がその手にあった。
「あげるわ」
 それだけで、彼女は広場から立ち去って行った。
「……そんなに子供に見えるのかなあ」
 残されたツェルは、自分の爪先を見下ろしてつぶやいた。何気なく少し背伸びしてみる。
「……馬鹿馬鹿しい」
 そんな自分が少し切なくなった。

 その三日後。明美が青の将軍になったという知らせが入り、明美の姿を広場で見かけなくなった。
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