嫌な奴と出くわしたと思った。
青の将軍になって早々、任務の為ラトニティアの敵国に潜伏することになった明美は、準備の為に神殿の自室へ戻ろうとしていたところだった。しかしそれを待ち伏せしていたのだろう、そいつは回廊の柱の陰から現れたのだった。
「よお、嬢ちゃん。青の将軍にご就任おめでとう」
そいつ、紫の将軍である志木・ラチェス・ドーランという名の青年は、にこやかな作り笑いとともに心にもない事を口にした。
別の道で帰れば良かった、と明美は激しく自身を呪った。もちろん無表情で、そんな思いは顔には微塵も出ていなかったが。
「ありがとうございます、紫の将軍」
明美は仕方なく、そう返した。
明美が他人に好き嫌いの感情を抱くのは珍しいことだった。なぜなら、彼女にとって他人というものは興味の対象ですらなかったから。
そんな明美が嫌いだと感じる程、ラチェスは嫌な奴だった。女王に保護されてからというもの、何かと嫌味臭い言葉ばかりかけてくるのだ、この男は。分からないように言うならともかく、分かるように言ってくるから尚更最悪だった。まあそうでなければ嫌がらせの意味がないが。
いつものように無表情で返したのが、いつものごとくお気に召さなかったらしい。
ラチェスは眉をひそめ、無言でこちらに歩いてくると、前触れもなくいきなり明美の胸倉を掴み、乱暴に柱に押し付けた。
息が詰まり、僅かに眉を寄せる明美。
「調子に乗るなよ、捨て駒風情が」
ラチェスの琥珀色の目が冷たい光を宿して明美を見た。
明美は抵抗することなく、ただ無表情でその目を見返した。
何をそんなに焦っているのだろうか、この男は。
女王のお気に入りになった明美を嫌うのは分かるが、これではただの八つ当たりだろう。女王配下で一番の将軍のすることではない。
「俺はな、てめえみてえな奴を何人も見てきたぜ?」
ふいに愉悦を含ませて喋りだしたラチェスを、明美はけげんな表情で見る。
「女王の気まぐれで可愛がられ、同じ気まぐれで処刑されて身を滅ぼしてきた奴らをな」
思わぬ言葉に、明美は僅かに動揺して瞳を揺らす。
処刑? あの優しい女王に限ってそんなまさか。
それに気付いてラチェスは少し気を良くしたらしい。パッと手の平を開いた。途端に背中に感じていた圧迫感と息苦しさが消え失せる。
「信じられないのも無理はない。だが、せいぜいもがくことだな」
ラチェスは親切めいた言い方で皮肉をよこした。言うだけ言って満足したらしい。明美には大きな迷惑だが。
「安心しろよ。お前が殺されることになったら、紫の将軍様直々に始末してやるから」
最後にそう言うと、ラチェスは楽しそうににやっと笑って身を翻した。
「………」
明美は何も言い返さず黙ったまま、ラチェスの姿が消え失せるまで、その背中を睨みつけていた。
「―――嘘よ」
彼の姿が見えなくなってもしばらくぼんやりと立ち尽くしていた明美だったが、ふとぽつりとつぶやいた。
信じられなかったし、信じたくなかった。
こんな見ず知らずの世界に落ちてきて右往左往していた明美を受け入れてくれたのは、紛れもなくあの女王様で。
明美は頭を振って、ラチェスの言葉を追い散らす。あんな奴の言葉なんか、信用しない。
(私はただ、あの人の為に―――)
明美の頭を占めるのは、女王の喜んだ顔。任務に成功したら、どんな顔をしてくれるだろうか。
そんな僅かな期待感とともに目を閉じ、明美は回廊を歩き出した。先の事など知らない。今は目の前のことを片付けるだけ。
そう思う明美の中に、小さな不安が浮かんだことなど、全く気付かなかった。
「……あの女が次の犠牲者、か」
立ち去る明美が横切った柱の裏で、ラチェスと明美のやり取りを静観していた青年が一人、ぽつりとつぶやいた。しかし、無人の回廊でその言葉を拾う者は誰もいなかった。
* * *
明美が手早く準備を整えて神殿を出ようとすると、入り口に二人の人物が立っていた。
「先生?」
その一人を目に留めて、明美は少しばかり目を見張って声をかける。
「お早う、アケミ様」
銀色の髪を後ろで三つ編みに束ね、お団子状にバレッタで留めた、目の覚める美女が、ちょっとばかり軽い口調で挨拶し、黒い手袋を付けた右手をひょこりと上げる。十六歳の明美より七つ年上だが、その様子はまるで学生のようだ。
彼女の名前はリゼ・ローエン。明美の教師を務めている女性だ。
「どうしたんですか? 今日は授業はなかったはずでは……」
「ふふ、違うの違うのっ。私がこの無愛想男を引き連れてここにいるのには別の理由があるのよっ」
リゼはあくまで可愛らしく、さりげなく隣の男性を馬鹿にしながら言う。
「理由?」
明美は首を傾げ、隣の男性を見た。
その男を明美は知らないが、実は先程のやり取りを見ていた者だった。
すらりと高い身長をしていて、薄い色合いの金髪が褐色の肌によく映えている。瞳は茶色く、落ち着いた雰囲気というより倦怠感を漂わせている青年だ。体格の良さから、それなりに訓練を積んでいる者らしいことが感じられた。
「誰が無愛想男だ? お前、その喋り方はやめろ。気色悪い」
青年は本気でそう思っているらしく、眉根に深く皺を刻んでいる。
「うっさい。黙れ、唐変木」
リゼは笑顔のまま辛口を吐いた。明美とはまた違ったタイプの辛口人間のようだ。
だが類は友を呼ぶというのだろうか。明美とリゼは仲が良い。というよりは、どうも一方的にリゼに気に入られているようだった。
「彼氏なし女に言われたくないな」
「何ですって! あんただって彼女いないじゃない!」
どうもこの二人、仲が悪いようだ。
友達同士の貶しあいのように少し笑みが零れるならともかく、本気で険悪モードが漂っている。
「……リゼ先生?」
明美は説明を求めることはせず、ただリゼの名を呼ぶ。正直口を挟むのが面倒なだけだったりする。
「あら、ごめんなさいね、アケミ様。私達見て分かる通りとーーーっても仲が悪くって。もうこいつの顔なんて拝んだだけでその日最悪? みたいな気分なの」
語尾にハートマークでも付いていそうなくらい可愛らしい口調で、リゼは困ったように言う。もっとも、内容は劣悪だったが。
それに対して青年は眉をぴくつかせたものの、話が進まないと思ったのか口を閉ざしていた。
「それで本題に移るけど。私達、今回貴女の部下につくことになったの」
「先生が部下、ですか? ……嫌じゃないですか? 生徒の部下なんて」
明美の気遣いに、リゼは首を振る。
「気にしなくて良いのよ。私、あなたのこと気に入っちゃったんだもの。一緒にいられるなら別に構わないわ」
そして同意を求めるようにくるりと青年を振り返る。
しかし青年はリゼの期待を裏切る発言を返す。
「俺は迷惑だ」
青年はきっぱりと言い、明美と向き直る。
「今回は任務だからつくが、それ以外はゴメンだ。せいぜい足を引っ張るなよ、青の将軍殿」
青年の発言にリゼは思い切り顔をしかめて、力いっぱい青年の脛を蹴りつけた。
「!」
青年は声こそ出さなかったものの、痛みを堪えるように蹴られた足を押さえてしゃがみこんだ。そして半分殺気のこもった視線をリゼに投げてよこしたが、すでに彼女は明美の腕を取って歩き出したところだった。
「さ、あんないかれ男放っといて行きましょう、アケミ様」
明美は状況に流されるまま歩みを進めたが、ぽつりとリゼに尋ねる。
「ところであの人の名前は何ていうんですか?」
「ハル・コラルドよ。あんなんで一応私より二つ年上ね。ま、銃器・薬品・機械の扱いは得意だし運動神経も良いから足を引っ張ることなんてたぶんないと思いますわ」
うふふふふと可愛く微笑みながら返すリゼの言葉に、ハルはぼそりとつぶやく。
「運動音痴のお前が一番足引っ張るんだよ」
しかし楽しそうにお喋りをしているリゼの耳には、生憎と届かなかった。
* * *
ダーティア教神殿の地下には、実はヴェルデリア国すら知らない、ヴェルデリアに繋がる秘密の地下通路がある。その通路への入り口が、神殿中庭のマンホールであるというのは、神官なら誰もが知っていることだった。公然の秘密だ。
通路が作られたのは、もちろん敵国の内情を知る為と陰からの攻撃の為である。しかしその帰結にあるのは、五十年前の戦争でヴェルデリアに奪われた国宝の奪還だった。
そしてその奪還の命を受けたのが、支倉明美だったのだ。女王をよく知る臣下達は、それを単なる気まぐれとしてしか見ていなかったが、明美にとってはそうではなかった。女王の信頼の証だと信じていた。
「この地下通路を三日歩きますと、ヴェルデリアの送電系統の地下トンネルに行き当たりますわ」
地下通路を、懐中電灯を片手に黙々と歩く明美に、鈴を振るような声音でリゼが言った。
明美はちらりと彼女を見る。
「三日も?」
「そうです。でももう少し行けば、エアフロート置き場に到着致します。そこで休憩を兼ねて昼食を摂りましょう」
リゼの申し出に、明美は頷いた。
周囲の暗さのせいで実感は湧かないが、時間的にそろそろ正午だろう。
疲れた訳ではないが、長時間の移動ではタイミングが重要だ。疲れを溜める原因になるから。
明美とリゼの後方を歩くハルは何も言わない。恐らく文句はないのだろう。
それから十分程歩いたところで、通路を塞ぐ鉄扉に行き当たった。
「ここがエアフロート置き場ですわ」
リゼは言い、扉の真横につけられた小さな機械に近付いた。手の平程の四角いそれには、電子板とボタンがついている。暗号入力式らしい。
リゼは手早く暗号を入力し、開錠した。カチンという小気味良い音が通路に響く。
それから扉を開けると、「お先に失礼しますね」と中に入っていった。続いて明美が入る前に、パッと室内に明かりが灯る。
まぶしさに目を細めながら部屋に踏み込んだ明美は、殺風景な室内を見回した。
どう見ても安物のスチール製の机と、パイプ椅子がいくつか、そして壁には鉄製の棚が一つあった。
明美の入った扉の目の前にあるもう一つの扉の方に目を向けると、扉脇の壁には円板状の機械が六つ立てかけられている。――エアフロートだ。
明美は無言のまま、手近なパイプ椅子に腰を下ろした。
あまり使われない為だろう。ひどく埃臭い部屋だった。
三人はここで昼食を摂ることにし、その後続きを進むことになった。
「古い機種だが、よく手入れされてんな」
地下通路に入って、ハルは初めて口を開いた。
円板状のエアフロートを一つ手にして、しげしげと眺めている、
このエアフロートという機械は、ラトニティアで主流の交通機器の一つだ。大人の男が乗れる程の大きさの円板で、裏面には浮上石がつけられている。地面と水平に置くだけで、すぐに浮き上がるのでちょっとした注意が必要だ。
この円板の上に人が立ち、前後左右に傾けて移動するという機械だった。
エアフロートの原動力である浮上石は、廃棄都市の西に広がる灰色砂漠にしかない為、ラトニティアの主要輸出品にも加わっている貴重品である。
「当然でしょ。スパイは重要任務なんだから」
ハルのつぶやきに、リゼがつんと顎を上げて言う。
そのせいで、すぐに二人の間にとげとげしい空気が流れ始めた。
この二人、どうあっても仲良くする気はないらしい。
(前途多難だわ……)
明美は内心で呆れつつ、面倒なので見なかったことにする。
「徒歩で三日と言ってたけど、エアフロートならどれくらいで着くの?」
「一日だ。どちらにしろ今日は通路内で野宿だな」
リゼが答えるかと思えば、意外にもハルの方が答えた。
ハルは明美が文句を言うかと身構えた。――何しろ今までの上司ときたら、我が侭も良いところだったのだ。野宿なんて汚い。匂いが嫌だ。上司をこんな所で休ませて良心が痛まないのか、などなど。そんな文句ばっかり口にする輩ばかりだった。そして皆、やはり女王の気まぐれで命を落としていったが。
しかし、そんなハルの予想を裏切り、今回の上司は特に興味もなさそうに「そう」と返事しただけだった。
その代わり、リゼの方が「こんなじめっとした所で?」と不平の声を上げていた。
「嫌なら帰れ」
ハルがじろっとリゼを睨むと、むっときたのかリゼも睨み返してきた。
「帰るわけないでしょ。根暗!」
そしてそう付け加え、リゼはエアフロートを手に取る。
(非常にどうでも良いが、この女の俺の印象は“根暗”とかだけなのか……?)
かなり不服だった。ハルは眉を寄せてしかめ面をし、自身もまたエアフロートを選び取った。
「おい、上司殿。言っとくが、こいつは大の付く運動音痴だ」
やってらんねえぜ全く。
ハルはぼそぼそと文句を言いながら頭を掻く。
明美は面倒臭そうな彼にちらりと視線を向ける。
「………そうみたいね」
エアフロートに乗ってふわふわと宙に浮かぶ二人を尻目に、リゼは先刻からエアフロートに乗っては落ちるという動作を繰り返していた。それからようやく乗れたと思えば、歩いた方がマシだと思うスピードでしか動けないようだった。
明美はしばらくそれを黙って見ていたが、ふいにエアフロートから降りると、エアフロート置き場に入っていった。すぐに戻ってきた彼女の手には、ロープが一つ握られている。
どうするつもりかと見守るハルの前で、明美はリゼのエアフロートと自分のエアフロートをロープで繋げて固定した。
「私の肩に掴まって下さい」
無表情でそれだけ言うと、明美はエアフロートに乗る。明美が前、リゼが後ろという形になった。
リゼは余程嬉しかったのだろう。一瞬、滅多にみせない泣きそうな顔をした。
「ありがとうございます」
そしてだいぶ年下の上司に、小さく礼を述べる。
それからは、素晴らしい速度での移動となった。
彼女達の横を飛びながら、ハルはふと思い至る。この毒舌で、ほとんど他人に信用を置かないリゼがこの上司を気に入っているのは、もしかしたらこういう気遣いのせいかもしれない、と。
(だが、こういう奴程腹ん中じゃ何考えてるか分からねえもんだ)
今まで当たった上司のひどさにすっかり人間不信に陥っているハルはそう思い直し、しばらく用心することに決めたのだった。