トンネル内に響き渡る銃声。
こだまする悲鳴。
零れ落ちる涙。
あなたは賢いから大丈夫だと、親も見てくれなかった自身を、幼馴染みのゆえにいつも見てくれた少女を、自分から手放した。裏切られた気がして、許せなかったのだ。
けれど会えたことは単純に嬉しかった。見知らぬ世界で、知っている人に会えることがどれだけ安堵できるものなのか。きっと経験しなければ分からないだろう。
知人を撃たれたというのに、瀬奈は明美の在り方を否定することはなかった。ただ、哀しそうに泣いていた。
いつも笑っている目が、水を浮かべて揺れている――。
明美はハッとして身を起こした。
最初に見えたのは、暗闇を照らすにじんだ光と、照らし出された壁だ。ここは、そうだ。ラトニティアとヴェルデリアを繋ぐ秘密の地下通路。
任務最後の野宿をしていたのだった。
逃げ回った三日間は意外と身体に負担をかけていたようで、すっかり身体が重く、沈むように眠ったのを覚えている。部下に再会出来て緊張がゆるんだせいもある。
「まだ夜中だぞ」
明美の気配で起きたらしい。ハルのぶっきらぼうな声が聞こえた。
「……そう」
夢の余韻でぼんやりしながら、明美はつぶやく。
夜中ということは、朝は遠いだろう。もう一度眠る気がしなくて、小さく溜息を吐く。
「はぐれていた間に、……何かあったのか?」
核心をつく問いに、明美はぎくりとする。この年上の部下は、普段は必要最低限しか話そうとしない割に、鋭い。
「逃げていただけよ。何もないわ」
あまり追求されるのも嫌で、明美はもう一度身を横たえ、毛布を被る。
ヴェルデリアに幼馴染みがいましたなんて言ったら、きっとスパイ扱いされるだろう。それくらい、ラトニティアはヴェルデリアの人間に厳しいのだ。
「それならいいが。あまり、“独り”になるのはよせ」
何が言いたいのだろう。明美は目だけハルに向ける。ハルも地面に寝転がっているので、当たり前だが顔は見えない。
「お前、他人に関わるのを避けてるだろ」
明美は眉を寄せる。
「そうね。面倒だから」
「まあそれはよく分かるが」
ハルは気持ちのこもった溜息を吐く。何か思い出したのか、しんどそうな嘆息だった。
「それでもお前を心配する奴だっている。そこの性格最悪女みたいに」
しっかり悪口を言うハル。
任務前より遥かに険がこもっているように感じた。自分がいない間に何かあったのだろうか。
「……それで何が言いたいの」
あまりこういう話題は好きじゃない。内心を図られるのは嫌いなのだ。
「石を手に入れてからあんたの様子が微妙におかしいんで、そこの女がそわそわしてんだよ。本気でうぜえから、あんたが改善してくれると非常に助かるんだが」
そうだったのか。気付かなかった。
明美は目を丸くする。
何だろう、この二人。仲が悪いくせに、相手のことは気になるらしい。いや、ただ単に側にいる人間が落ち着きがないと気に触るだけなのかもしれないが。
「努力するわ。……でもあなた達も何かあったの?」
問い返されて、ハルは口をつぐむ。
病気のことを口にしたら、リゼは烈火のごとく怒るに違いない。それはそれで面白そうだが、今は喧嘩の相手を出来る余力がないので、やはり黙っておくことにする。
「――別に。喧嘩してこいつに殴られたくらいだ」
「そこまで仲悪かったの?」
「俺は何もしてない。あっちが手を出してきたんだ。俺は全く悪くないぞ」
ハルはしっかり強調し、地下水道のことを思い出してまた腹の底が煮えてくるのを感じ、無理矢理温度を冷ます。
どうやら怒りに耐えているらしいと明美は察知し、それ以上は何も聞かないことにした。
「まあ、とにかくだ。最初はこんな小娘かよって思ってたが、大概認識変わったしな。何かあったら頼れよって話だ」
明美は微笑する。今回の任務でだいぶ株が上がったようだ。
「……ありがとう」
明美は礼を言い、目を閉じる。
良い人達と出会えたと思う。心が少し温まるような心地がする。
けれど、胸の底から痛みは取れそうになかった。
女王の喜ぶ顔が見たい。
明美はずっと思い続けていることを、再び思った。
あの人の笑顔を見たら、きっとこんな痛みも消えて、もっと強くなれる気がした。
「アケミ・ハセクラ。ただ今帰還いたしました」
謁見の間にかしづいて報告すると、ラトニティア王国の女王は嬉々とした表情になった。
「よい、面を上げよ」
「は」
短く答え、明美は女王を見上げる。
美しい顔がプレゼントの包装を開ける子供のような、落ち着きない表情をしていた。
「それで、例の物はどうした? 手に入れたのか?」
明美は微笑んで頷く。
「もちろんでございます。女王陛下様」
明美は言い、手に持っていた布の袋をうやうやしく差し出す。
「至宝はこの中にございます」
「おお、誠か!」
女王は侍女に袋を運ばせ、それを手にするとすぐに中身を開いた。
手の平に零れ落ちる、水晶の花のような美しい石――至宝<白浄花>。
女王の顔が喜色に輝く。至宝に劣らぬ美しい笑みだった。
それを見て、明美はすっと胸が軽くなるのを感じた。
この表情が見たくて、この任務を受けたのだ。
「アケミ、否、青の将軍よ。此度の働き、見事であった」
女王は厳かに言う。鈴の転がるような、高く澄んだ声だ。
「ありがとうございます、陛下」
畏まって頭を下げる明美を満足そうに見つめ、女王はいたわりを含んだ声で言う。
「明日褒美を取らせるゆえ、今日はゆっくり休むことだ」
「はい!」
ねぎらいの言葉に、明美は目頭が熱くなるのを感じた。そしてますます深く頭を下げる。
「それではお言葉に甘え、これで失礼致します」
最後にもう一度礼をし、明美は謁見の間を後にした。
* * *
明美が謁見の間を出て行くと、女王は手の中の石をぎゅっと握り、ククッと笑う。
「やっとだ。やっと取り戻した……至宝<白浄花>」
そして、自身の胸元に握った手を押し当てる。
「これでわたくしの病も治る。忌まわしき石化病め」
石化病に治療する手立てはない。肺に入り込んだ灰胞子を死滅させる手立てがないのだ。それなら、その胞子を浄化させてしまえばいい。そう、女王は考えたのだ。
この<白浄花>を持って一晩眠れば、明日の朝には病気は治っているだろう。
女王は死ななくて済む安堵と喜悦で笑い続ける。人のない謁見の間に高い、鈴の転がる笑い声が響く。
しばらくそうして笑い続けた女王だったが、ふいに思い出したように呼びかけた。
「誰かおらぬか」
その声に応えるように、室外に待機していた侍従がすっと姿を現す。
「失礼いたします。お呼びでしょうか?」
「あの男はどうしている?」
侍従は僅かに首を傾げる。そしてすぐに思い至ったのか、口を開く。
「それは、灰胞子拡散事故の元凶の男のことで?」
女王は頷く。
「あの男は五年前に地下研究所で治療法研究をしている最中、石化病にかかってございます。今はだいぶ重病とのことと伺っております」
女王はそれを聞いて、気の毒な顔をするどころか、当然だというように口の端を上げる。
「そうか。まあ当然であろう、本来なら死刑のはずだったのだ。死に様くらいは苦しんでもらわねば困る。あ奴の発明した発電装置のせいで、わたくしだけでなく多くの者が病にかかり死んでいったのだからな」
そして忌々しそうにそうつぶやくと、侍従に言いつける。
「もういい。あの男、治療法を見つけるに役立つかと生かしておいたが、役に立たないなら闇の女神の御許に送るまで。――良いな?」
暗に殺せと意味している言葉を聞くと、「承知つかまつりました」侍従は低頭し、部屋を出て行った。
「今日は何と良い日だろうな。至宝を取り戻せ、あの忌まわしい男の処置もようやく出来た」
女王は小気味良さそうに、美しいけれどどこか禍々しさを含んで、艶やかな唇を上げて小さく笑んだ。
翌朝。
女王が呼んでいると使いの者に言われ、身支度を整えて明美はやって来た。
一晩休んだだけで、疲れはすっかり抜けて身体は軽い。それ以上に、心が浮き立っていた。
昨日女王は褒美を与えると言っていたが、それには興味はなかった。上手くいくと女王の側にいられるかもしれないという希望が強かった。
しかし、それも謁見の間の扉前に来ると一気にひそんだ。何度来ても、謁見の間に入るのは緊張する。
真っ白い木に細かい細工のなされた大きな扉。この先にあるのは別世界のような錯覚を必ず覚えてしまう。実際、女王の美貌は、まるで妖精の女王と称せそうな程だった。白く透けるような肌、月の明かりのような金髪。触れたら曇ってしまいそうな、本当に綺麗な人だから。
「失礼します」
中に入った明美は、思わず息を飲んだ。
女王が険しい表情でこちらを見ていたのだ。氷のような視線だ。
一体自分が何をしたのか。
明美は膝をついて礼の形を取りながら、瞬時に考えを巡らす。何も、女王の気に障ることはしていない。女王の態度の変化の理由がさっぱり分からないだけに、明美はますます冷や汗が浮かんでくるのを感じた。
「私をお呼びだと伺いました」
緊張を滲ませないように気をつけて言う。
女王は明美を玉座に座ったままちらと見下ろす。
「この石は確かに至宝だが、全くの役立たずだ」
唐突に、女王は苛々と言い捨てた。
明美は目を丸くする。いきなり、何を言い出すのだろう。
身じろぎせずに顔を伏せている明美に構わず、女王はクスクスと笑い出す。
「病の元は断てれど、病を治すことは出来ぬのだ」
何がそんなにおかしいのか、女王は倒錯じみた笑いを零している。
明美は思い切って顔を上げる。
「陛下、先程から一体何を……」
最後まで言わせず、女王はぴしゃりと言う。
「石化病だ! あの忌々しい病のせいで、わたくしは……っ」
女王の顔は赤く、怒りの為か小刻みに震えている。
あまりに震えがひどいので、明美はこのまま倒れはしないかと心配になった。
女王は不安に表情を曇らせる明美をキッと振り返る。
「そなたのせいで、わたくしはこんな絶望を得たのだ! そなたが石を持ってきたから!」
「し、しかし。それは任務で」
「黙れ!」
鋭い叫びが、明美の声を遮る。
頭の中が真っ白になる。まさかこんな理不尽なことでお怒りになるなんて。
困っていた自身に手を差し伸べてくれた優しい人が、大きく見えた人が、今はとても小さく見えた。
「誰か、この者を連れて行け!」
呆然とする明美の耳に、悪夢のような命令が入ってきた。
――俺はな、てめえみてえな奴を何人も見てきたぜ?
――女王の気まぐれで可愛がられ、同じ気まぐれで処刑されて身を滅ぼしてきた奴らをな
そして同時に、ラチェスの言葉を思い出す。
(そんな……)
このままでは自分もまた処刑されてしまうだろう。でも、それ以上に、女王の豹変ぶりが哀しかった。
「陛下、あんまりです! 私はただ、あなたのお役に立ちたかっただけで……っ」
言いかけた明美だったが、両腕を掴まれて言葉を切る。近衛兵が二人、明美を無理矢理引き立たせたのだ。
「離して! まだ話が…っ!」
暴れて手から逃れようとするが、徒労に終わる。兵士は無言のまま強い力で明美をひきずっていく。
「陛下、陛下! お願いです、側にいさせて下さい。陛下!」
懇願もむなしく、謁見の間を追い出された明美の目前で、重厚な扉が閉ざされる。
向こう側とを隔絶するそれは、拒絶を露にしているようだった。まるで、女王の心を具現したように。
明美は兵士に脇を固められたまま、肩を落とす。
「陛下……、ただ側にいたかっただけなのに……」
小さくつぶやいた声を拾った兵士二人は、それぞれ僅かに表情を曇らせたが、何も言わず明美を連れていく。
いつの間にか零れ出た涙が、廊下に敷かれた紅の絨毯に落ち、すぐに吸い込まれて消えていった。