白浄花の輝き編 第三部 逃亡

二十章 逃亡 

 明美が任務に出てからもう二週間以上は経つ。
「いつ頃戻られるのかな」
 ツェルは暇が出来ると、よく広場に来ていた。もし彼女が帰ってきたらここに来るかもしれないと思ったのだ。
「ノロマ、お前、またここに来てんのか?」
 今日も来ないのか、と、頬杖をついた格好でぼんやりとドームの天井に映し出された空を見上げていたツェルは、ギクッとする。この声は、シャルトーだ。虐めっ子達のリーダーの。
「シャ、シャルトー……。ななな何か用?」
 半分逃げ腰になりながら、ツェルは恐る恐る振り返る。
「用がなきゃ声かけちゃいけねえのか? 何様だお前」
「ご、ごめん……」
 相変わらず意地悪く返したシャルトーの鼻の周りにそばかすの浮かんだ顔が、すぐに呆れ顔に変わる。反射的に謝ったツェルは、珍しい事もあるものだと怪訝な顔になった。
 すると、気付いたシャルトーにじろりと睨まれた。
「んだよ、その顔は」
「え、あ、えーと……」ツェルは視線を泳がせ、小さく答える。「意地悪い顔以外初めて見たから……う、ごめん」
 最後には結局謝った。彼ら虐めっ子相手だと、どうしても語尾にごめんを付けてしまう。それだけ苦手なのだ。
 シャルトーはフンと鼻を鳴らす。
「好きな奴出来て少しは変わったかと思えば、そこは全然だな」
 ツェルは目を見開いて、バッと、いつもと違って呆れ顔そのもののシャルトーの顔を見る。
「ええっ!?」
「何だよ、お前気付いてなかったのか? あの女と出くわしてから、お前ずっと上の空じゃねえか。あんまりアホ面してるから虐める気も起きやしねえ」
「そ、そこじゃなくて。ええと……その……」
 最初の方、と言おうにも何となく気恥ずかしくて視線をうろつかせるツェル。シャルトーは半眼で訊く。
「“好きな奴”、か? はあっ、お前まさかそこにも気付いてねえのか? 信じらんねー。ノロマだノロマだ思ってたが、そこまで鈍かったのかお前」
 かなりひどい言い分だったが、ツェルはそれどころじゃなかった。
(す、好きな奴? 好きな奴って、僕、アケミさんのこと好きだったの……?)
 新事実発見に、目が回りそうな気分だ。それをシャルトーに指摘されたということで、尚更恥ずかしさで死にそうだ。
(僕、そんなにあからさまだったのかな。うわあどうしよう、アケミさん気付いてなかったよね。うわあ)
「知るかそんなこと。ほんっと気が抜けるっつーか。何驚いた顔してんだ? 全部口から出てるぞ」
「うえっ!?」
 ツェルは蛙でも飲み下したような奇妙な声を上げる。赤くなったり青くなったりと忙しい。
 ツェルの一人百面相を見ているうちに、シャルトーは笑えてきて声に出して笑う。
「ははっ、お前ほんっと馬鹿だよな! おもしれー」
「……どういたしまして?」
 ツェルは眉根を寄せて、首を傾げつつ言う。
「褒めてねえよ!」
 途端にシャルトーに怒鳴られ、うわっと肩をすくませる。
「ったくよー。どれだけ落ち込んでるか楽しみに見に来てやったっつーのに。何で俺がこんな奴の相手してんだよ……」
 大いに不服そうに、シャルトーはぶちぶちと文句をたれる。
「どうして僕が落ち込むの?」
 きょとんと問うと、シャルトーのこめかみにピキッと青筋が立つ。
「それはこっちの台詞だボケ。その分じゃどうも知らねえようだから親切な俺様が教えてやろうじゃねえか」
「ヒ、ヒヘヘヘヘ。だから何なんだよ」
 どうも教えたくないのに教えなくてはならない自分に腹が立っている風情で、八つ当たりにツェルの左頬を強く引っ張るシャルトーに、意味がさっぱり分からないツェルは抗議の声を上げる。
「だから、あの女、女王の逆鱗に触れて牢屋送りになったんだって! あんだけ噂してんのに、何で知らねえんだよ、お前は!!」
「え……?」
 ヒリヒリする頬っぺたを左手で撫でながら、ツェルはぽかんとシャルトーを見返す。
「それ、ほんと!?」
 我に返ったツェルは、普段の温厚さからはかけ離れた行動に出た。シャルトーの襟首を掴んだのだ。一瞬ツェルの剣幕にたじろいだシャルトーだったが、眉を寄せてツェルを突き飛ばす。
「知るか! 噂だって言ってんだろ!」
 勢いがついて後ろの噴水に落っこちたツェルは、びしょぬれなことに気付きもせず、再度詰め寄る。
「それで、噂じゃ、どこの牢屋にいるの!?」
「神殿って聞いたぞ……」
「そっか、分かった。ありがと、シャルトー」
「分かったって、おい、何する気だよ!」
 いつも落ち着いているが、そのいつもとどこか落ち着き方が違う――いうなら落ち着きというより肝が据わったという感じに近いツェルに、シャルトーは思わず呼び止める。
 しかし、ツェルは返事もしないで、走り去っていった。
 去っていく後ろ姿をしげしげと眺める。
「あいつ、怒らせると怖いタイプなんだな」
 呆然とつぶやいたシャルトーは、愉快そうに口元をひん曲げた。
「こっちの方がよっぽど良いぜ」
 これから何か一悶着起きそうだ。
 面白そうだから、傍観しているとしよう。


* * *

「今、どれくらいかしら」
 膝を抱えて簡易寝台の上に座り込んでいる明美は、足元に落としていた視線をふいと上げた。
 ここは、闇の神殿の地下にある牢屋だ。近衛兵達に連れてこられて、入れられてから、もう三日目である。牢屋番をしている神官は日付が変わったことは教えてくれるが、時間までは教えてくれないので、今が朝か夕方かも分からない。地下世界の更に地下にある為、当然だが自然光なんて期待出来ない。牢の向こうにある通路に、薄暗い明かりが灯っているだけなのだ。
 明美の処刑は一週間後だと神官が言っていたから、あと四日しか時間はない。
「バカみたい……」
 明美は薄暗闇の中、ぎゅっと膝に顔をうずめる。
 女王に助けてもらって、役に立ちたくて、それできっと良い気になっていたのだ。だからこんなことになってしまったんだろう。
 もうすぐ死ぬのだと思ったら、頭に浮かんできたのは故郷の町だった。小型のボートが停泊する小さな港、風が運ぶ潮の香り、カモメの騒がしい声。そして、学校へ向かうバスと、その窓から覗く海の景色。それから――幼馴染みの少女と、その弟の笑顔。
 皮肉なものだと思う。親より先に彼女達の姿が浮かぶのだから。
「謝っておけば良かった……」
 ひどいこと言ってごめん。あんたの知り合いを傷つけてごめん。
 それだけ言いたいと、後悔が胸を突いた。けれど、どうしようもない。
 このまま自分が死んだら、瀬奈は悲しんでくれるだろうか? 
 そんなことを思った時。前触れもなく、牢の向こうの扉が開いた。牢番が見回りにやって来たのだろう。
 明美は顔を上げる気もしなくて、そのまま寝たふりをすることにした。
「アケミさんですか……?」
 しかし、想像と違った柔らかい声に、明美はえ? と顔を上げる。
 牢の向こうには、目深に古布を被った神官がいた。背丈からいって、明美と同じ年頃かそれ以下だ。
「あ、僕です。ツェル・バルロード」
 怪訝な顔に気付いてか、神官は古布を取る。
 すると露になった銀髪が暗闇の中で薄く浮き上がって見えた。
 それを自然に綺麗だと思った明美は、彼の少女のような顔立ちを見て記憶を呼び起こした。
「広場の……」
「はい」
 明美が無意識に漏らした言葉に、ツェルは小さく頷く。
 そんなツェルの姿に、明美は困惑する。どうして隠れるようにしてここに来ているのだろう? そもそもどうして自分に会いに来るのだ?
 彼には悪いがすっかりその存在を忘れていた明美は、嫌味を言いに来たでも、哀れみを向けに来たようでもないツェルにますます困惑に陥る。
 さっぱり訳が分からない。
「……何しに来たの?」
 とりあえず、考えても分からなかったので訊いてみる。訊き方が僅かに険を含んでいるのはご愛嬌だろう。
 しかしツェルは全く邪気のない表情で返した。
「あなたを逃がしに来ました」
 いつも冷静沈着な明美も、あまりのことにぽかんとした。
「あなたが捕まったと噂に聞いて、しかも女王様の八つ当たりで、というじゃないですか。それで聞いた足でここまで忍び込んでしまいました。本当に貴女だったのか確かめたくて」
 あっけらかんと説明するツェル。
「そうしたらやはり貴女だったので、僕は逃がす事に決めました」
 真面目な顔で、ツェルはきっぱり言った。
 どうにかフリーズが溶けた明美は、行き当たりばったりに聞こえる説明に頭が痛くなる気持ちがした。
「そんなことしたら、あなたが代わりに処刑されるわよ?」
 たった二度会ったきりの相手を、自分のことに巻き込める程自分勝手ではない。
 明美は冷静に言う。
 すると、やはりそこまで考えていなかったらしく、ツェルは少し考え込んだ後、名案が閃いたという顔をして、にっこり笑む。
「それなら、僕も一緒に逃げることにします」
「…………」
 明美は無言のまま脱力する。
 絶対、先の見通しなど全然立てていないだろうと思われた。けれど逃がすと言うからには逃がし場所に思い至るところがあるのだろう。
 色々と考えの甘さを指摘したかったが、それはやめて、一番気になることを口にすると決める。
「どうして?」
「はい」
「どうして、たった二回しか会ってない私の為に、そんなことをしようと思うの?」
 じっと睨むように問うと、ツェルの顔が暗闇でも分かる程赤くなったのが分かった。
「う、え、えーと。答えなくちゃいけませんか?」
 何故かおろおろと視線をさまよわせるツェル。
 明美は眉を寄せる。
「……あんたには悪いんだけど、私は別にこのまま死んでも構わないのよ。別段、生きる目標もないし。帰りたい場所もないし。そもそも帰れないわ」
 きっぱりと告げると、おろついていたツェルが哀しそうな顔になった。
「だからね、私、こうしようと思うのよ。危ない真似してまで、あんたがここに来たってことは、私にも少しは価値があるってことでしょう? その理由の為に生きるんなら、逃げても良いって」
 そこで言葉を切り、さあ言ってみろ、と威圧する明美。これでは囚人にはさっぱり見えない。それどころか、敵方に捕まっているのに威勢の良い王女様といった感じだ。
 ツェルは理由を言おうとして再び顔を赤らめる。言わなくては、この綺麗な少女はこのまま死んでしまうに決まっている。
「その……ええーと……。……から」
 ツェルは顔をうつむけて、ぼそりとつぶやく。
「聞こえないわよ」
 追い討ちをかける明美。
 その一言で、ツェルはヤケクソな気分になって顔を上げる。
「僕が、あなたに一目惚れしたからです!」
 ……は?
 予想を遥かに超えた理由に、明美の脳は動きを停止する。
(……え? 今、一目惚れって言った? そんなまさか。それで助けようなんて思ってるって、そんなの……)
「馬鹿じゃないの?」
 心のつぶやきが、思わず口から出た。
 瞬間、ツェルはショックを受け、情けない顔つきになる。
「馬鹿だって分かってます。でも、あなたに死んで欲しくないんです。だから、あなたにとって馬鹿馬鹿しくても構いませんから、生きる理由にしてくれませんか」
 ツェルは必死に言う。玉砕することよりも、死んでも構わないと断られるのが怖かった。
「ええと、そうです、あなたのこと好きだって思ってる人がここに一人いるって、そう思ったら、生きていけると思うんです。だから、あの……」
 こんなことしか言えない自分が本当に情けなくて、ツェルの目尻にじわじわと涙が浮かんでくる。
「良いわ」
「!」
 ぽつりと零された答えに、ツェルは顔を上げる。
 目の前では、牢の中で寂しそうに座っていた明美が、耐え切れないという様子で笑っていた。
「あんたの告白、の、こと、は、置いておいて。それ、生きてく、理由にする」
 笑いながら言っているせいで途切れ途切れだったが、明美はそう答えた。
「ああおかしい。そんなこと真面目に言う奴いるのね。く……ふふっ」
 大真面目に言ったことを笑われても、ツェルは怒る気にはなれなかった。それよりも、無表情しか見たことのない彼女が笑っていることの方が嬉しかった。
 それで、つられてツェルも小さく笑う。
 地下牢の中に小さく笑う声がささやくように広がっていく。

「楽しそうね」
 
 唐突に、声が一つ紛れこむまで。


* * *

 突然降って湧いた声に、明美とツェルはギクッとして口をつぐんだ。
(いつの間に)
 ドアの開いた音すらしなかった。
「……先生?」
 けれど誰の声だかすぐに気付いて、明美は拍子抜けした。
 牢屋番に来た神官だったら、明美の雷のハティンで気絶させて、ツェルは逃がそうと一瞬の間に考えただけに。
「明美様! ご無事でした? 怪我などありませんか? もしあるんでしたらその方、裏から手を回してあの世に」
「先生、大丈夫だから、怖いこと言わないで」
 何を言おうとしているか分かった明美はリゼの言葉を遮る。
「そうですか、良かったですわ」
 リゼはにっこりと微笑む。
 何故だか自分を気に入っているこの人は、どうも時折暴走しがちだ。気をつけないと被害者が出る気がする。聖女のような外見なのに、時々腹黒そうな発言が見え隠れするから、どうしてもそう思ってしまう。
 牢の前にいるツェルは感覚でそれが分かったらしい。恐ろしそうに一歩身を引く。
「――どうしてここに?」
 例の如く感情の浮かばない顔で明美は訊く。ここ三日音沙汰なしだったから、リゼは女王の怒りが及ばないように身を引いたのだと思っていた。そうするのが賢い人間のやり方のはずだ。目の前にいるツェルのように、少し考えなしなら話は別だが。
「はい、それは話しますけど。その前に、この、明美様に告白しようなんていう下賎な子供は誰なんです?」
 リゼは微笑んでいたが目が笑っていない。
 リゼの放つ禍々しい気配に、ツェルが「ヒッ」と小さく悲鳴を上げて、また一歩身を引いた。気のせいか、泣きそうに見える。
 蛇に睨まれた蛙。そんな言葉が頭を横切った明美である。
「ツェル・バルロード。闇の神官だそうよ。以前広場で二回程会ったの」
「そうなんですか……」
 リゼは考えるようにツェルを見る。ツェルは視線に気付いて縮こまる。
「ふうん、あなた、見る目あるわね。惚れた上に助けようなんて。どう見ても弱虫なガキなのに」
 はっきりと言葉遣いを変えているリゼを、ツェルはキッと睨む。
「あ、あなたは誰なんですか! あああ明美さんのこと処刑しにきたっていうなら、僕、止めますよ!!」
 明美より少し身長が小さいツェルだが、精一杯言い募る。何が何だか分からなくなっているらしい。
「リゼ・ローエンよ。下っ端神官」
 名前を聞いた瞬間、いきりたっていたツェルはぽかんとし、大きな目がますます大きく見開かれた。
「えええっ!? ローエン博士? あの〈国の宝〉?」
「静かにしなさいよ、人が来るでしょ」
「あっ、すみません」
 ツェルは小声で謝りながら、目を白黒させている。相当な有名人が目の前にいるというのが不思議だったのだ。
「さて、納得したところで」
 リゼは自分だけでなくツェルもという意味で呟き、明美に向き直る。
「本題です、明美様。率直に言いましょう。逃がしに来ましたわ」
 真剣な顔に切り替わったリゼは、言葉通りあっさり切り出した。
 何となくそんな気がしていたが、口にされると重みが違った。周りにほとんど興味を持たない明美の心に、ずしりと響く。
 会いに来てくれただけでも十分なのに。ツェルとリゼは逃がすとまで言ってくれる。
「……ごめんなさい」
 明美が思わず呟くと、リゼはえ? と目を瞬く。
「私、さっきまで、本当に死んでも構わないって思ってた。だから、ごめんなさい」
 逃がそうなんて思ってくれるくらい、自分のことを考えてくれているのに。それに気付きもしないで、面白くないと思っていた現実(セカイ)から目を背けていた。
「明美様……」
 リゼは言葉に詰まる。
「私、もう少し真面目に生きてみようと思う。二人とも、ありがとう」
 明美は笑った。
 楽しそうとか、愉快だからとかではなく、すっきりしたといった感じの晴れやかな笑みである。
 ただでさえ笑うことがほとんどない明美であるから、リゼとツェルは文字通り固まった後、二人して顔を赤らめる。
「いいいいえっそんな大したことじゃないですよ」
 落ち着かない様子でツェルが言い、リゼも返す。
「ええ、本当に!」
 すっかり照れているリゼだったが、心の中では(素敵すぎですわ明美様!)と叫んでいたりする。明美より七つ年上なのに、ほとんど子供にすら見える。
(って、幸せに浸っている場合じゃないわ!)
 もうしばらく幸せの余韻に浸りたかったが、無理矢理現実に思考を戻す。今は悠長に会話している場合ではないのだ。
「こんな風に話している場合ではありませんわ。明美様、すぐに出ますよ」
 言いながら、牢の扉の鍵を開けるリゼ。
「ここ三日で、準備しておいたんです。急がないと、見つかったら意味がなくなります」
 リゼに促されるまま、牢を出る明美。こちらもリゼと同じく気持ちを切り替えている。
 リゼはツェルをちらっと見、
「この子が味方になったのは計算外だけど、まあ、結果的には行幸ね」
 ボソリと呟く。明美にも聞こえない程の小声だ。しかし目の前にいたツェルには聞こえ、ツェルは「どういう意味だろう」と首を傾げる。
「そういえば、あなたはどこから明美様を逃がすつもりだったの?」
 だが訊く前に質問され、ツェルは一瞬うろたえた後、答える。
「ええと、神殿の中庭から、地下通路を使ってヴェルデリアへ行こうと」
「それは無理ね。人目が多すぎるわ。やっぱり私の案でいきましょう」
「案というのは?」
 牢屋を出、廊下を歩きながら、明美は問う。
「あの地下通路へは、他にも通じている道があるんです。住居区Gなんですけど、行けば分かりますわ」
 リゼは丁寧だが短く答え、黙々と早足に歩く。元々足が遅いので、喋っていると余計に足手まといになるからだ。
「住居区Gですか。それは丁度良いですね」
 明美が問いかける視線を向けると、ツェルは続ける。
「そこの方々とはお知り合いなので。お別れを言って行きます」
「……そう」
 明美は僅かに目を伏せる。
 知人と別れるというのに、ツェルが寂しさを見せないせいだ。それ程、自分と行くことに微塵の後悔もないのだろう。
「ありがとう」
 微かに口を動かす。
「何か言いました?」
「ううん、何でもない」
 牢屋に入れられて逃亡するはめになっているのに。最悪なはずの一日なのに。今日は何て良い日だろうと、明美は心の底からつぶやいた。

         *

「神官様か? どうしたんだこんな時間に」
 住居区Gに入ってすぐ、壁際に座っていた男が、明美達に気付いて声をかけてきた。その声につられるように、まだ起きていた何人かが顔を向ける。深夜を過ぎたばかりなので、彼らがいぶかしむのも当然だ。
「すみません、こんな夜遅く……」
 ツェルはボロ布を取って、頭を下げる。
「そりゃあ良いが、一体……?」
 最初に声をかけてきた、片足の悪い男が問う。目はツェルの後ろの女性二人に向いている。
 ツェルはどう言ったものかと悩む。逃げている途中ですなんて、どう説明すればいいのか。
「起こしてしまって申し訳ないけど、通らせて頂くわ。ちょっと逃亡中なのよ」
 が、そんなツェルの心配をよそに、リゼがあっさり言い切った。
(えっ、それで良いの?)
 ちょっとショックを受けるツェル。
「逃亡だって? お主、何をやらかしたのじゃ?」
 老婆が信じられなさそうに訊いてきた。
「そうよそうよ、あんたみたいな良い子が犯罪なんて出来るわけないわ」
 片目を眼帯で覆った女が、老婆の横からきっぱり言う。
「いえ、今からするところなんです」
 返事に困って、正直に答えるツェル。尚更不思議そうな顔をする住人達に、えーとえーとと唸りだし、結局どう言えば良いか分からなくて、頭を抱えた格好で沈み込む。
「……馬鹿ねえ。何でこんな簡単なことを説明出来ないの」リゼが呆れきった口調で言い、住民達を向いて言う。「簡単な話よ、処刑予定の方を逃がすってだけ。分かるでしょう?」
 途端、住民たちがざわつく。
「そんな! そんなことしたら、あんたも死んじゃうじゃないの!」
 先程の女が悲鳴じみた声を上げる。
「だから、逃げることにしたんです……」
 ツェルはそう答え、ぺこりと頭を下げる。
「今まで、お世話になりました。もう二度と会うこともないと思いますので、お別れを言っておきます」
 それから顔を上げると、まっすぐに住民達を見て、きっぱりと告げる。
「あなた方まで巻き込むわけにはいきませんから。あなた達は僕達がここを通ったことは、寝ていたので気付かなかったことにして下さい」
 すると、女は泣きそうな顔になった。
「そんな……。もう二度と会えないなんて。哀しいこと言わないでよ」
「そうだ! 第一、世話になってるのは俺達の方で、世話なんてした覚えはねえぞ!」
 片足の悪い男が言い張り、周りも同意する。
 そんな住民達の様子を、明美は耐え切れない思いで見ていた。
(こんなに優しい人達がいるのに、私に付いて来たいだなんて。何て馬鹿なの……)
 でも口には出来なかった。どう言っても、絶対付いてくるだろう。微塵も迷いがないのだ。
「お主が処刑予定のお人か?」
 老婆がちらりと明美の方を見る。リゼが「処刑予定の方」と表現したので、残る一人がそうだと判断したようだ。
「ええ」
 明美はそれだけ答えて口を結んだ。
 自分のせいで、この人達からツェルを取り上げてしまうんだと思うと、何も言えなかった。
 老婆はじっと明美を見た。
「…………」
 明美も無言で見返す。何がしたいのかよく分からない。けれど反らしてはいけないような気がした。
「なるほどのう」
 何が「なるほど」なのか理解不能だったが、ともかく老婆はそう呟いた。なにやら納得した様子で。
「まあええわい。神官様のことを頼みましたぞ」
 明美は目を瞬く。まさか頼まれるとは。
「恐らくこの子が逃がしたくて、お主についてってるのじゃろうが。ついてきたからには面倒みてやっておくれ。わしらも見て見ぬ振りを通そう」
 すると、婆さんがそう言うなら……と住民達もざわめくのをやめた。場が一気に静まり、周囲にはギシギシという換気用のプロペラの音だけが響く。
 よく分からないが、通って良いということのようだ。
「ありがとうございます……」
 明美は頭を下げ、リゼとツェルもそれにならう。
「では、行きましょう」
 リゼが言い、三人は住居区Gの奥――換気用のプロペラのある鉄柵の方へ歩き出した。


         *

 耳障りな音をたてて回るプロペラ。その前にある鉄柵の一部には扉が一つ付いていた。
 以前、どうしてこんな所に扉があるのだろうと首をひねるツェルに、住民達が修理用だと教えてくれたが、まさか地下通路へのもう一つの隠し通路だったとは。
 鉄柵の鍵である南京錠をヘアピン一本でこじ開けたリゼはにっこり笑って明美を振り返る。
「はい、開きましたよ」
「この先に隠し通路が?」
 明美は自身の三倍の高さはあるプロペラを見上げる。それは人が歩く程の速度で、ゆっくりと回っている。
「ええ、このプロペラの向こうです」
 リゼはプロペラの向こうの暗がりを見つめる。暗くて、何があるかは見えない。だが確かにあの先に扉があったはずだ。
「ということは、くぐるんですか?」
 確認するように訊いてみるツェル。それでもリゼが苦手なのか、恐々と、ではあったが。
「そうよ」
 はっきり頷くリゼ。明美はふと不安になる。
「先生……大丈夫ですよね?」
 回転しているプロペラの羽の隙間を通過するにしても、1m程しか隙間はない。
「これくらいなら平気ですわ。――勢いをつければ」
 ひどく真面目くさった顔で付け加えるリゼ。
 リゼが運動音痴だと知らないツェルは、それを不思議そうに見上げる。
(何でそんなに深刻そうなんだろう……?)
 タイミングさえ間違わなければ、そう難しいことではない。
 その後、その理由を知ったツェルは、完璧な人なんていないんだなあと奇妙な感心を抱いた。


 換気扇の下を通過するのに多少まごついたものの、数分後には明美一行は地下トンネルを歩いていた。
「多少、追っ手の目は撒けたでしょうが、どちらにしろここに辿り着くのは時間の問題ですわ」
 エアフロート置き場までを歩く道程、リゼが慎重な声で言った。
「ええ……確かに」
 明美もそれには同意だ。
 地下都市を出るなら、このヴェルデリア行きの隠し通路か、地上へのエレベーターの二つしか道がない。神殿の中庭を使った形跡がなく、エレベーターにもいないとなれば、あとは先程の通路を思い出されたら終わりだろう。
「こうなったら急いでエアフロートに乗り、ヴェルデリアまで休みなしで行くしかありません」
 リゼが遠く、エアフロート置き場のある場所を見つめて言う。
「大丈夫ですよ。そこまで行けば……あとは私がどうにかしますから」
 力強く笑うリゼ。
 どうする気か知らないが、何か参段があるらしい。
 リゼの笑顔に、明美は何故か不安になる。けれど何がそうさせるのか分からず、口には出さないことにする。
「うん、分かったわ」
 明美の後ろでは、ツェルが頼もしそうにリゼを見上げていた。


 小さい電子音がして、鍵が開錠された。
「さあ良いですよ」
 リゼが明美とツェルを振り返る。
「二人とも、中に入ったらすぐにエアフロートに乗って逃げて下さい」
 ふいにリゼは小声でささやくように言い、突然明美とツェルの背中をエアフロート置き場の中へと突き飛ばした。
「わっ!」
 ツェルが声を上げて派手に転び、室内に埃が舞い上がる。
 その隣の明美はよろけただけで、転ばずに踏みとどまった。
「先生?」
 困惑して振り返ると、扉が閉まるのが見えた。――室内にリゼの姿はない。
 それに気付いた瞬間、明美は思わず扉にすがりついた。
「先生!? 何を!!」
 分厚い鉄製の扉を叩くと、向こう側からくぐもった声が返った。
「ごめんなさい、明美様。この扉はこちら側しか鍵をかけられないの。一緒に行きたかったけど、ここでお別れです」
 きっぱりとした声で告げるリゼ。
「どうして! まさか最初からそのつもりだったの?」
 問いただす明美。声が震えてくる。
「――そうです。少し不安でしたけど、その子がついていくと聞いてほっとしました。少年、ちゃんと明美様を守りなさいよ」
 最後は若干厳しい声で、リゼが言う。
「何言って……。駄目ですよ、一緒に逃げましょう!」
 ツェルも明美の後ろから必死に叫ぶ。転んで膝をついた格好のままで、扉の方に身を乗り出す。
「無理よ。私は運動に弱いから、ただの足手まといにしかならない」
「そんなことない! 先生はいつも私を助けてくれた!」明美はぎゅっと目を閉じて、うつむく。「お願い、ここを開けて。一緒に行きましょう」
 搾り出すように、明美は乞う。こんなに心の底から、誰かに頼むのは、初めてだった。
「――明美様、あの音が聞こえますか?」
 ふいに、リゼが問いかけた。
「え?」
 顔を上げる明美。耳を澄ませる。
 ガシャガシャと何かがぶつかりあうような音が、だんだん近付いてくる。
「――追っ手ですよ。実は、もう少し前から聞こえてたんです。本当はもう少し彼らが来るのが遅かったら、一緒に行くつもりでした。けれどもう無理です」
 リゼは淡々と告げて、優しい声で促す。
「ここは私が食い止めますから、早く行って下さい」
 顔は見えないのに、扉の向こうでリゼが微笑んだ気配がした。
 明美の目に涙が滲む。もう、これ以上我が侭は言えない。
「――うん、分かった」涙を手の平でぬぐい、顔を上げる。「ありがとう、先生。私、一生あなたのこと忘れない」
 告げた言葉に、返答はなかった。もう、話すつもりはないのだろう。
 明美はツェルを振り返る。
 ツェルはひどくつらそうに扉を見つめていた。
「行きましょう、ツェル」
 強い声で言う明美をツェルは呆然と見返し、明美の決意を知って顔を引き締める。
「――はい」
 彼もまた強い眼差しで応え、しっかりと立ち上がった。

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