白浄花の輝き編 第三部 逃亡

二十一章 ラチェス 

 二人が去った気配がすると、リゼはすぐに電子錠の電子板の上に指を走らせた。目まぐるしい速度で両手が動き、やがて、画面に「パスワード変更」の文字が浮かんだ。
 それを目にして、ようやく息を抜く。
 これで幾らか時間稼ぎが出来るはずだ。
「いけないなあ、ローエン博士」
 軽薄さを帯びた男の声が通路に響いた。人の気配に気付いていたリゼは、ゆっくり振り返る。近衛隊を十名程連れた青年が立っていた。
 薄茶の髪を後ろで束ねた彼は、琥珀色の目と左目の下の泣きボクロが印象的だった。服装は近衛隊の制服だが、胸元に紫色の布がかかっている。
 紫の将軍だ、とリゼはすぐに気付いた。
(すぐに追っ手が来るとは思っていたけど、まさか将軍が動くなんてね……)
 青の将軍が逃げたとはいえ、予想外な人物が追ってきたものだ。紫の将軍は、自分の分の仕事は真面目にこなすが、面倒事には手を出さないと噂で聞いていた。
「幾ら博士が〈国の宝〉と呼ばれていても、これでは刑罰はまぬがれない」
 紫の将軍――志木・ラチェス・ドーランは薄く笑みを浮かべながら言った。どこか他人を嘲るような目をしている。
 楽しんでいるのだ、とリゼは思い、負けじと睨み返す。
「そんなのはなから分かってるわよ。何のために残ったと思ってるの?」
 リゼもまた、小馬鹿にして笑う。相手の神経を逆撫でする技量なら、リゼの方が上手だ。頭の悪い奴が嫌いだと豪語しているだけはある。
 案の定、ラチェスの眉が僅かに寄った。
 それに気付き、ますます鼻で笑ってやる。
「残念だけど、ここのパスワードは変えさせてもらったわ。これでしばらくは動けないでしょうよ」
 リゼは強気に笑った。天才科学者の自分が複雑に組み替えてやったのだ。余程高性能の機械でないと解けないに決まっている。
 しかし、ラチェスはふうん、と呟いただけだった。
「そんなもの、俺には無意味だな」
 また、嘲るような軽薄な笑みを浮かべるラチェス。リゼは思わずムッとした。
 ラチェスはリゼの脇をすっと抜けると、エアフロート置き場の鉄の扉に右手を当てた。
 何をする気かといぶかしむリゼの前で、突然、扉が爆(は)ぜた。
 赤と黄色の炎が一瞬吹き上がり、爆風が通路を駆け抜ける。
 咄嗟に目を閉じるリゼ。
 風が止んだのに気付いて目を開けると、扉に大きな穴が開いており、向こう側の壁にも穴が開いていた。
 驚愕に目を見開く。
 ――何てことだろう。こいつはハティナーだったんだ!
「連れて行け」
 呆然と佇むリゼを満足げに見やり、ラチェスは部下に顎で指図する。
 するとリゼの両脇に近衛隊員が二人さっとやって来て、力任せにその場から引き離した。
「ちょっと、放しなさい! 自分で歩けるわよ!」
 リゼが文句を言っても、二人は無視した。リゼはキッと背後を振り返り、怒鳴る。
「あんた、明美様に手を出したら、地獄の底まで追いかけてって殺してやるから!」
 気迫のこもったリゼの怒声に、しかしながらラチェスは相変わらず薄い笑みを浮かべただけだった。
「――お前らはここにいろ。あの女を仕留めるのは、俺だけで良い」
 リゼの騒ぎ声がだんだん遠のいていく中、穴を越えて明美を追おうとする部下達をラチェスは呼び止めた。
 その顔は、まるで獲物を見つけた狼のように酷薄だった。
「さて。あの女、どこまで逃げられるかな?」


 地下トンネルはひんやりと冷たい。その中を、風を切るように明美とツェルはエアフロートを走らせていた。
 どちらも無言だった。
 背後から追っ手が今にも追いつくのではないかという怖さがあり、とにかく走らせていく。
 少し鈍いところのあるツェルだが、エアフロートの扱いは上手だった。以前にも乗ったことがあるのかもしれない。
 明美はエアフロートを走らせながら、残ったリゼのことや、ハルのことや、任務で行ったヴェルデリア国の首都のことを考えていた。ついこの前まであった平穏が、あっさり手の平を零れて消えていく。
 女王の下にいる為に、一方的に別れてきた幼馴染みの顔がちらりとよぎった。そして、あいつはこんな目に遭わなければ良いと思った。ヴェルデリアでだって、こんな目に遭うかもしれないのだ。
 それから、ついて来てくれているツェルのことも思った。残ったこの少年だけは、手から落とさないように、絶対に守ろうと思う。
 それくらいしか、明美に出来そうなことはなかった。
 幸い、明美には〈雷〉のハティンがある。
 まだ最大限に力を使ったことはないが、少し使っただけでもかなり強力だ。きっと役に立つだろう。
 ――そして、それはすぐに役立った。

 ズガンッという鈍い音がして、ふいに左手の側壁が壊れた。
 拳大程の岩が跳ね飛んでくる。
「!」
 明美は咄嗟に身を反らして岩をかわすと、そのまま後方に体重を乗せてブレーキをかける。
 エアフロートは音もなく、空中で止まった。
「大丈夫ですか、明美さん!」
 壁が崩れ落ちたのに気付いたツェルが、慌てて引き返してきた。
「間一髪だったけど、平気」
 ぼそりと答える明美。不意打ちだったから、本当はかなり驚いていた。心臓が脈打っている。それでも顔に出ないのは流石だった。
「ちっ、惜しいな」
 そこに、憎憎しい舌打ちが聞こえた。
 明美の顔が反射的に嫌悪を浮かべて振り返った。
 少し離れた地下トンネル後方に、明美が心の底から嫌っている、ラチェスがエアフロートに乗って浮いていた。
「紫の布……!?」
 ラチェスの制服に付いている布の意味に気付いて、ツェルが顔を青くする。
「あ? 誰だそのチビ」
 ラチェスの琥珀色の目が、じろとツェルを見据える。
 ツェルは鋭い視線に思わず後ずさりかけたが、自分の使命を思い出して踏みとどまった。明美を逃がすと決めたのだ。逃げてはいけない。
「ツェル・バルロードです」
 ツェルはキッパリと答えた。少女のような外見もあって、その様はどこか荘厳に見えた。肝の据わったツェルは、本当に、普段の面影が見えない。
 ラチェスは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「この女の味方ってやつか。博士といい、何だってそんな女を庇うんだかな」
 心の底から不思議そうだ。
 あなたを庇うよりずっとマシだ、とツェルは心の中でとはいえ、珍しく悪態をついた。
 顔を見ただけで、相当性格が悪いと分かった。そしてこの手の人間は、他人を傷つけることに喜びを見出すタイプだ。
 ツェルを虐める子達でも、ここまではひどくない。ツェルは真面目に思った。
 黙ったままじっと睨んでいると、ラチェスは興味が失せたらしい、視線を明美の方にずらした。
「青の将軍。前言った通り、殺しに来てやったぜ」
 明美は眉をひそめた。
「あんた一人で大丈夫?」
 引き下がるのも癪だから、真正面から睨みつけた。
 瞬間、ラチェスの視線が冷えた。
「相変わらず気に食わねえな」
「その方が嬉しいわね」
 辛口で返すと、ラチェスはますます険しい顔になり、ふと口の端を上げた。
 明美が疑問を感じた瞬間、ツェルの足元の地面が弾けた。


 一瞬の出来事だった。
 ツェルの足元がいきなり弾けたと思ったら、ツェルはトンネルの壁に叩きつけられていた。
 口から勝手にうめき声が漏れて、壁を伝ってずるりと倒れこむ。路面の冷たさが頬に伝わった。その衝撃で、後頭部が痛み、加えて胸の辺りに激痛が走った。
「ツェル!」
 悲鳴じみた明美の声に、小さい声だが答える。
「大丈夫です……」
 見た所、全然大丈夫ではなかった。
 明美の顔が青ざめる。
 ツェルの頭から血が出ていたのだ。
 思わず駆け寄ろうとしたが、ラチェスに遮られた。
「次はお前の番だ」
 にやりと、いかにもざまあみろというように笑われて、明美の中で何かが切れるような音がした。
「あんた……」
 殺気を含んだ目で、ラチェスを見る明美。
 瞬時に、右手に金色の光が纏わりつく。バチバチと空気を弾く音が、トンネルに満ちた。
「絶対に許さない!」
 怒りに満ちた声で叫ぶなり、明美は小さな〈雷〉をラチェスに向けて投げた。

       *

 明美は腹の底が煮えたぎっているのを感じていた。怒り心頭とは、今のことをいうのだと思う。
 とにかく目の前の敵を排除することだけが頭を占めていたから、明美は全くの躊躇いなしにハティンを使った。
 しかし、ラチェスは予想でもしていたのか、さっと横に飛んで攻撃を交わした。そしてその琥珀色の目が明美の足元を見た。
「!」
 明美は視線の意味に気付いて、咄嗟にその場を飛びのいた。
 直後、空気を叩きつけるような音が響き、一瞬前まで自分の立っていた場所に小規模の爆発が起きる。
 ――背筋がひやりとした。巻き込まれてはただでは済まないだろう。
 そこへ更にラチェスの追撃が加わった。
 音が先なのか地面が砕けるのが先なのか、バスバスバス! という軽い破裂音が響くとともに地面が爆ぜ、突風が巻き起こった。風は長い間沈殿してきたトンネルの土埃を舞い上がらせ、瞬時にぶわりと明美の姿を覆い隠した。

「ちっ、使いすぎたか……」
 爆発の衝撃で地下トンネルが揺れ、視界を土埃に遮られ、ラチェスは舌打ちした。
 パラパラと、天井から砂が落ちてくる。
 あまりハティンを乱用すると、トンネルが崩落して生き埋めになってしまうだろう。
「どこに消えた……」
 ラチェスはねめつけるようにして、周囲に注意を払う。
 四方を土煙で囲まれ、視界が利かない。
 こんな手狭な所でなければ、大爆発を起こして仕事を終わらせるのだが。
「そこか!」
 右手の方に影が映りこみ、ラチェスはハティンを使った。
 爆発が起こり、足元にひらりと灰色の布切れが落ちてくる。明美が身に付けていた、厚手の防御服だ。
「――やったか」
 口元をひん曲げ、死体でも拝もうかと爆発地点に目を向ける。
 ――しかし、そこには砕かれた地面があるだけで、他には何もなかった。
「――なに?」
 眉を寄せた瞬間、首筋の毛がちりりと粟立った。
 強い危機感とともに振り向いたラチェスの視界は、その瞬間、黄金に輝く光で埋め尽くされる。
 刹那、ラチェスの身体を強い衝撃が襲った。

「ぐああっ!?」
 明美の特大〈雷〉を腹に押し付けられたラチェスは、悶絶の声を上げて身体をクの字に折り、そのままうつぶせに倒れた。
 明美はラチェスを無言で見下ろした。白い長袖の上着と黒いズボンのあちこちには細い線が走っている。ラチェスのハティンで弾け飛んだ小石のせいで、身体中に切り傷や擦り傷が出来たのだ。
 灰色の防御服は、劣りに使ったので、原型をとどめていない。少し違えば自分自身がこうなっていたと思うと、少しゾッとした。
 気を失ったのか、ラチェスは倒れたままぴくりとも動かない。
 高濃度の〈雷〉をお見舞いしたものの、死ぬ程の威力で放ったつもりはなかった。
 念のために脈を取ってみると、ちゃんと生きていた。
 明美は小さく息を吐く。
 どれだけ嫌いな奴でも、出来るなら命を奪いたくはない。今後もラトニティアで生活する予定なら避けられなかったかもしれないが、これから明美はラトニティアではない場所で暮らすのだ。余計なことはしたくない。
 身体中がピリリと痛んだけれど、明美は壁際に倒れているツェルの方へ歩み寄った。地面に膝をつき、血で濡れたツェルのこめかみを見つめて眉をひそめる。髪をまとめていた灰色の布をほどくと、そっと手を伸ばして応急処置を施す。
 ――大丈夫。大丈夫だ。この人は生きてる。
 心臓が厭に脈打つ。
 明美は言い聞かせるように思い、ぐったりしているツェルの腕を掴んで、肩に回す。そして、腕で支えながら、地を引きずるように歩き出した。
 ――大丈夫、私は一人じゃない。
 高濃度のハティンを使ったせいだろうか、頭がフラフラした。身体も痛い。それでも、先に進まなくては。
 エアフロートはラチェスの攻撃の余波で壊れてしまっている。とにかく、歩くしかなかった。


 トンネルの中に、靴音が響く。
 ざり、ざり、と砂を噛む靴底。薄暗い照明。出口がないように見える、細い通路。
 ――ぽたり。
 明美の顎を伝った汗が、地に小さな円の模様を作った。
 肩口で荒く息をしながら歩き続けていた明美だったが、とうとう疲れに負けて地面に倒れこんだ。
(どれくらい経ったのかしら……)
 ひんやりとした地面の感触を頬に感じながら、明美は内心で呟く。
 目の前がぼんやりとする。
 どうしてこんなに薄暗いのだろう。
 何でも良い、地上の明かりが見たかった。
 視界は闇色に閉ざされる。
 ――地下の国の空は偽物だった。だから、次に目を開けたら、本物の空を見たい。
 意識を失う直前、明美はそんな望みを抱いた。
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