「おはよ〜」
フィース機械工学アカデミー。その座学用の教室の自分の席に座り、溜め息混じりに教科書を開いていると、明るい声で挨拶をされた。
そちらを向くと、肩までのウェーブのかかった薄い茶髪と同色の目とをした少女が立っていた。この学校で出来た初めての同年代の友達で、アンジェリカという名だ。今日は細身の黒いカチューシャをしているらしい。留めるものがリボンだったり、派手なバレッタでまとめていたり、日々の気分でころころ変わるものだがら、ついそれを確認するのが癖になってしまった。
ちなみに、この学校には制服は存在しないので、皆私服だ。
おはよう、と瀬奈が返すと、アンジェリカは不思議そうな顔をした。
「どったの、今日はやけに覇気がないわね」
「んー、小テストの勉強でほとんど寝てなくて……」
そう答えながら、げんなりと机に倒れ伏した。
元いた所でもそうだったが、テストなんて嫌いだ。そもそも、勉強自体が苦手なのだ。
「なーんだ。てっきり彼氏のことで悩んでるのかと思った」
「……へ?」
瀬奈はがばりと顔を上げた。何のことだ?
アンジェリカはきょとんとし、首を傾げる。
「あれ、違うの?」
何が? と聞こうとしたら、教室の扉が開いて少年が顔を出した。
「おはよ、何話してんの?」
黄土色の短い髪をしている少年――レクには、どこか近寄りがたそうな印象がある。このクラスの最年少、十四歳の彼はヴェルデリア国の義務課程である中等科から飛び級しまくってここにいる。それでなのか、周りに馴染みきれないらしかった。
それでも、瀬奈とアンジェリカと友達になってからは、だいぶ取っ付きやすくなったという噂だが。
「セナの彼氏の話」
アンジェリカは事も無げに答える。
「彼氏? いつ出来たの?」
あっさり信じたレクは、不思議そうに緑色の目を瞬いた。
「いや、出来てないから!」
瀬奈はそこではたと我に返って、盛大に突っ込んだ。
「別に隠さなくたって良いじゃない。一週間前から、その腕輪とネックレス、始終大事につけてるもん。彼にでも貰ったんでしょ?」
「違うって!」
瀬奈は思い切り否定する。
単にどちらも外せないだけだ。腕輪は外れないのであり、ネックレスは外出の間は外さないようにとリオから厳命されている。
なんでも、オラニスが通りすがりの人間に腕輪を押し付けたのだから、ちゃんとその相手の居場所が分かるようになっているはず、らしいのだ。それで、いつオラニスと接触しても対処出来るように、そうしなくてはならないらしい。
瀬奈はますますげんなりしてきた。確かに、アンジェリカがそう勘ぐりたい気持ちも分からなくはない。今までアクセサリーなど全く付けていなかった女がいきなり付け始めれば、普通ならそう思い至るはずだ。まさか、事件に巻き込まれているせいだとは微塵たりとも思うまい。
「で? 彼氏って誰なの? やっぱあの金髪の彼?」
アンジェリカは瀬奈の否定をさっぱり聞き入れず、実に楽しそうに身を乗り出す。
ああ、目が輝いてる。獲物を前にした捕食者みたいに、爛々と。
瀬奈はじりじりとアンジェリカから距離を取る。といっても、椅子に座っているので、せいぜい椅子の広さぐらいだ。それから、投げられた質問に眉を寄せる。
「……金髪?」
「違うの? いつも一緒にいるからそうなのかと思ってたのに。………まさかロベルトやカエナじゃないでしょうね。でも、そんな告白するほどの甲斐性なんてとても……」
後半部分をボソボソと口にしながら、考えにふけるアンジェリカ。まるで、浮気現場を突き止めた妻――じゃない、せめて探偵にしておこう――のようだ。
(いつも一緒にいる金髪っていうと……。……イオリしかいないか)
瀬奈は該当者を頭に思い浮かべる。
そして、一気にサーッと青くなった。
「一体、どんな誤解をしてるか知らないけど、ほんとに付き合ってないから! まじでイオリにそんな話しないでよ、怒られる……!」
すると、アンジェリカはポカンとした後、とてもいい笑顔を浮かべた。
「なるほどぉ、イオリ君に口止めされてたんだ。うんうん、分かった分かった。誰にも言わないから」
アンジェリカはパチンと片目をつぶり、楽しげに笑いながら自分の席の方へと行く。
(ああああ、全然伝わってない―――っ! まずい、このままだと殺される!)
てめえと付き合ってるだあ? ふざけんなよ、馬鹿にしてんのか。そう言って眼光を鋭くするイオリが思い浮かんだ。
「おめでと、セナ」
挙句の果てに、レクまでもがそう言って、すたすたと自分の席の方に歩いていってしまう。
「ちょ、ちがっ……!」
訂正しようと立ち上がったところで、始業のベルが鳴り響いた。
放課後、瀬奈はとぼとぼと校舎内を歩いていた。
このアカデミーは、希望者だけクラブ活動に参加するシステムになっている。
たまたま、美術部なんてものがあったので、瀬奈はそれに入っていた。この世界に来るまでは、画家になるのを夢見ていたのだ。目指すのは第五警備隊の手助けを出来るような機械士だが、趣味として続けたい。どこに行ったって、絵を描くのは大好きだから。
「うう、なんでこうなんの……」
結局、一日かけて訂正を試みたのだが、ことごとく失敗に終わった。それどころか、友達にまで嘘なんかつくなと怒られ、軽い喧嘩にまで発展した。瀬奈だって嘘なんてついていないのに、アンジェリカは思い込みが激しすぎる……。
お陰で、現在進行形でへこんでいる。
絵を塗りながら、アンジェリカの怒った顔がちらついて、てんで集中できなかった。それで、早々にクラブ活動を切り上げて、帰ろうとしている所なのだ。
溜め息をつきながら、アカデミーの正門を抜け、市街地に出る。
青灰色の家並みが、まるで瀬奈の心境をそのまま描きだしているかのようだ。
このままだと、イオリに大目玉を食らう。絶対にどうにかしなくては。ぐるぐると頭の中で対策を練り始めたところで、ふいに呼び止められた。
「セナ!」
噂の当人の声に、瀬奈は内心ビビリあがった。噂をすれば影。誰だ、そんなことを言った人。的確すぎる。
「わあああ、イオリ、違うの! 私はこれっぽっちも妙なことなんか口にしてないからね! 全部アンジェリカの勘違いだから!」
「……何訳の分からねえことを言ってんだ、お前」
出会い頭に怒涛のごとくまくしたてられ、イオリは怪訝な顔を作った。
瀬奈は上ずった声で返す。
「いや、分かんないんならいいの! 全然! ……で、えーと、どうしたの?」
どうにか落ち着いて、それでもビクビクしながら問いかけた。
目線をうろうろとさ迷わせながら問い返してくる瀬奈に、イオリは片眉を跳ね上げる。
普段からおかしいところがないわけでもないが、今日は取り分けおかしい。何をそんなに動揺することがあるのだか。
「ちっとまずい事態になってんだよ。ここじゃ詳しく話せねえから、本部まで来てくれ」
そう言うと、瀬奈はきょとんとする。
「そんなことなら、わざわざ来なくても、通信機で言ってくれればいいのに」
「だから、まずい事態だっつってんだろ。俺が来たのは、ガードマン代わり」
手短にそう答えておく。
首を傾げる瀬奈。
「ふうん……? でも、よく私がここにいるって分かったね」
「そのネックレス、なんだと思ってんだ」
それで、発信機であることを思い出したのか、なるほどと呟いた。それから、何故か顔が赤くなる。
アンジェリカの彼氏からの贈り物発言を思い出してしまい、瀬奈は激しく動揺していたのだが、そんなことをイオリは知らないので眉を寄せる。
「まじで何なんだ、お前。熱でもあんのか?」
「いやいやいや、ほんとのほんとに何でもない!」
「おい?」
「なーんーでーもーなーいーっ」
耳をふさいで大声で叫び、やたら強調する瀬奈。
……やっぱりというか何と言うか、どこからどう見てもおかしい。
(妙なもんでも食ったんじゃねえだろうな……)
まだまだヴェルデリア国に慣れきっていない瀬奈なので、イオリは僅かながらではあったが、本気で心配になるのだった。