虹色のメロディ編 第二部 情報流出事件編

五章 情報流出事件

 イオリの後について第五警備隊本部の扉をくぐると、ロビーのソファーに見慣れた二人が座っているのを見つけた。
 ハティナー保護協会管理員の、焦げ茶の髪をした背の高い痩せ型の男――テリー・オーウェンと、暗めの金髪が印象的な穏やかそうな男――カジ・ノリスの二人だった。ハティナー保護協会というのは、その名の通り、ハティナーを保護している国家機関だ。この二人はそこで管理員をしていて、ハティナー達にハティナーにしか出来ない仕事を請け負うように交渉に行ったり、未登録のハティナーがいると噂を聞いては探しに行ったりしているらしい。他には、ハティナーの住居や仕事など、ハティンを持っていると一般人に悟られないように根回ししてくれたりもする。
 二人はペアを組んでいるようでよく一緒にいるのだが、それでもここ最近はどちらか一方としか会っていなかったので、瀬奈には珍しいものに映った。
 しかし、いつもマイペースに話を進める二人にしては何やら深刻な顔をしているので、瀬奈は声をかけるのをためらってしまう。すると、カジの方がこちらに気付き、表情を和らげた。
「セナさん、こんにちは。お久しぶりです」
「こんにちは。今日はどうされたんです?」
 この二人がいるということは、間違いなく瀬奈に用事がある場合が多いので、瀬奈は自然とそう問いかけた。カジは瀬奈に向かいのソファーに座るように言い、瀬奈は首を傾げつつ腰を下ろす。
「今回お呼び立てしたのは、だいぶ深刻な問題が起きたからなんです。貴女が無事そうでほっとしました」
「まだ嗅ぎつけられてなかったようですね。安心しましたよ」
 心底ほっとした様子のカジと、小さく息を漏らすテリー。
「は? 一体、何のことですか?」
 さっぱり読めない状況に、瀬奈は目を白黒させるばかりだ。
「いや、実は……、協会の本部で最悪の失態が起きまして」
「登録ハティナーの情報が50件ばかり外部に流出したんです」
 二人の説明に、瀬奈は目を瞬き、意味を飲み込むなりええっと声を上げた。
「えっ、えーと、じゃあもしかして二人がここに来たのって……」
 嫌な予感を覚えた。それってつまり……。
「そうです。実はその50件に貴女のデータも入ってまして。それで取り急ぎお伺いした次第です」
 頭が痛い、とばかりに額に手を当てるカジ。
「ったく、本部の連中ときたら、ハッカーなんぞにウィルスを送り込まれてこのザマですよ。気付いた時点で接続を切断したからまだ良かったものの、ほんとに有り得ません。ハティナーを保護する気あるんですかね、奴ら」
 怒り心頭なのか、愚痴を連ねるテリー。
 この二人、ハティナーに仕事を回して請けさせることについては少々強引なところもあるが、本当にハティナーのことを考えてくれている。始めは印象が悪かったものの、仕事のことで何度か会っているうちに何となく分かってきた。二人とも、ハティンを持っていない普通の人なのに凄いと思う。
「あの! まさかその中にヒルとヨルのデータって入ってませんよね!?」
 がばっと身を乗り出しての瀬奈の問いに、二人は若干気圧されつつ、落ち着いてくれと両手を前へと突き出す。
「ええ、あの双子のデータは無事です」
 ちょっとたじたじでテリーが答える。
 瀬奈はほっと胸を撫で下ろし、ソファーに座り直す。
「他人のことより、まずご自分の心配をして下さい。全く、セナさんは本当に他人のことばっかりなんですから……。ハティンの性質って性格に由来するんですかねえ」
「カジ、呑気にそんなことを呟いている場合じゃない」
 テリーはカジを軽く睨む。のんびりした気質のカジに比べ、テリーの方が真面目な気質をしているらしく、テリーはよくカジに小言を言っている。それにカジがちょっとくらい良いじゃないかと溜め息を漏らすのも見慣れた光景だ。
「はいはい、全く石頭なんですから。まあ、そうなんですけどね、実際。実は、データが漏れた人の中からハティナー狩りにさらわれた人も出ているんです。もう、ほんと最悪です。そうならないようにするのが私達の役割なのに……」
 怒っているテリーと違い、カジの方はだいぶ落ち込んでいるらしい。
「えーと、それじゃあ私はどうすれば……?」
 瀬奈はカジを刺激しないよう、恐る恐る尋ねる。余計なことを言ったら、ますますへこませそうだ。
「今、調査している分ですと、どうも組織だった動きがありまして……。ハティナー狩りの暗躍と、今回の騒動とは関連性があると考えています。セナさんは住所を知られてしまいましたから、しばらくはこちらで過ごすようにお願いに来ました」
「へ……?」
 寝耳に水とはまさにこのことだろう。瀬奈はカジの方にばっと顔を向ける。
「で、でも。私、何も準備なんて……」
「はい、それでしたら警備隊の方に一緒について貰って帰宅されてからここへ来られると宜しいかと。どちらにせよ、新しい住まいを整え次第、引越しをして頂かなくてはなりませんし……。貴女が宜しければ、引越しも全てこちらで完了させて頂きますが」
 瀬奈は思わず言葉を飲み込む。
 ちょっとデータが漏れたくらいで引越しまでするものらしい。だが、住所が知られたのならそうせねばならないのだろう。でないと、ハティナー狩りに狙われる危険性に常にさらされることになる。
 瀬奈は溜め息をつく。やっとあの部屋にも慣れてきたのだが、諦めなくてはならないようだ。
「――分かりました。それなら、後で必要な荷物だけ取りに帰ります。引越しは、お手数ですけどそちらにお願いして良いですか?」
 瀬奈の申し出に、カジとテリーはあからさまに安堵した顔になった。
「ありがとうございます! 今回は本当に申し訳ありませんでした。以後、こんなことが起きないよう、精進させて頂きますので」
「本当にすみませんでした」
 二人はそう言って深く頭を下げ、ではまた後日連絡しますと言い残して本部を出て行った。


 二人が帰ってしまうと、一気に疲れが押し寄せてきて、瀬奈は大きく溜め息をついた。
「君、本当に散々だねえ、最近」
 がっくりする瀬奈に、フォールが思わずという調子で零す。
 瀬奈はうつむいたまま愚痴を呟く。
「ほんとよっ。今日も友達と喧嘩しちゃうし、誤解されるし。はあ……」
「へえ、喧嘩なんて珍しいね。一体どうして?」
「それがね、隊長さん。妙な誤解されちゃって……」
 瀬奈はそこでハッとしてロビー内を見回した。右良し、左良し、受付にカエデのみ、イオリの姿無し、良し。急いで確認を終えると、一つ頷いてから、声をひそめて言う。
「へえ、イオリと……」
 話を聞き終えたフォールは目を丸くした後、いきなり腹を抱えて笑い出した。
「なっ、ちょっと隊長さん! 笑い事じゃないんだって、私の命の危機なんだよ! 真剣に悩んでるんだから!」
 瀬奈は盛大に抗議の声を上げる。
「え、なになに。何の話〜?」
 そこに、瀬奈の声を聞きつけて、カエデも混ぜて混ぜてと顔を出す。仕方が無いのでカエデにも話すと、こちらにも爆笑された。
 瀬奈にとっては一大事だというのに二人揃って爆笑され、瀬奈は頬を膨らませた。
「なんで笑うの……?」
 すっかり目を据わらせて、地を這うような低い声で問いただす瀬奈。フォールとカエデはビクリとし、それでも笑いが止まらず、引っかかったような声で返す。
「いや〜だってねえ」
「ほんとほんと」
 そして二人で顔を見合わせ、また吹き出す。
 お、おのれ。いい加減にしろよーっ。
「もういい、知らない!」
 瀬奈はすくっとソファーを立ち上がり、本部を出て行こうとする。
 それを慌てて引き止めるフォール。
「ちょっと待った! 駄目だよ、外に出ちゃ! 僕が悪かったから、ねっ」
「そうそう、私も悪かったわ。だから落ち着いてっ」
 態度を一転、平謝りし始めた二人を胡乱げに見やり、瀬奈は口を開く。
「ほんとに悪いと思ってんの?」
「思ってる、思ってる!」
「ほらほら、謝ってるでしょ!」
 ここぞとばかりに言い連ねる二人。瀬奈はそれでようやく溜飲が下がる。
 ふうと息をつき、ソファーに戻る。
 カエデとフォールは瀬奈が座ると、ほっと安堵の息をついた。
「もう、そんなに怖がらなくても、イオリは別に怒ったりしないわよ」
 カエデはなだめるように言う。瀬奈には信じられない。
「嘘だあ。だってイオリだよ? いっつもすぐに怒るイオリだよ?」
「うっ、まあ確かに短気だけど。最近じゃ随分マシになったのよ。私、来年は首都に戻るつもりでいるくらいだもの」
「えっ、カエデ、首都に帰っちゃうの!?」
 思わぬ事実に、瀬奈は声を上げる。
「まだ決定ではないけど、多分ね。それはいいから、ともかくイオリは怒らないわよ」
「むしろ案外喜んだりし……ぐっ!」
 言いかけたフォールは、隣に座っているカエデに思い切り足を踏まれて言葉をつぐむ。カエデはというと、何も無かったかのようににっこりと微笑む。
「――とにかく、別にばれたって怒りゃしないわよ。イオリとは腐れ縁だもん、それくらい分かるわ」
「そうかなあ……。でも、ばれないことを祈るわ。わざわざ睨まれたくないもん」
 瀬奈は溜め息混じりに呟く。ただでさえ厄介ごとに巻き込まれているというのに、余計に頭痛の種を作る羽目になるとは。何でこんなについてないんだろう。少し神様が恨めしい。
「まあいいや、それは。先に荷物取ってこなきゃ」
 瀬奈はフォールを見て、問いかける。
「一緒についてきて貰っていいですか?」


 ――で、何でこうなるんだろう。
 瀬奈は頭を抱えたいのをこらえ、大きく溜め息をつく。エアバイクの後ろに座っているから、そもそも手は放せない。
「あ? 何か言ったか?」
 エアバイクを操縦しているイオリは、僅かに振り向いて問う。
「何にも言ってないよっ。いいから、前見て、前!」
 瀬奈は慌てて促す。
 安全運転第一だ。余所見されると怖い。
 必要な荷物をまとめる為、一時帰宅しようとフォールについてきてくれと頼んだのに、フォールはこれから用事があるからと断り、その役をイオリに回したのだった。今しがた相談していたのに、この仕打ち。ちょっとひどいんじゃないだろうか。
 でも、第五警備隊は少人数で回しているところだから、頼れる人も限られてくるわけだ。ここにリオがいれば、一つ返事でOKだったのだろうが、彼女は巡回中だ。幾らロボットがいても、人の目があるのと無いのとでは大違いだから欠かせないのだそう。
 そうこうしているうちに、瀬奈の住んでいるアパートに着いた。駐輪場にエアバイクを止め、バイクを降りる。そして、出入り口に向かう。
 ここはアパートだと言うけど、マンションといっても差し支えない雰囲気の所だ。出入り口は一箇所で、カードキーを持っていないと開かない仕組みになっている。持ってさえいれば、ガラス張りのドアは勝手に開く。初めはとても驚いた。そして、部屋の扉もオートロック。こちらは部屋の戸口にあるセンサーにカードキーをかざさなければ開かない。
 部屋は三階だから、エレベーターで上る。念の為にとイオリもついてくる。
「セナ、お前、何か悩みでもあんの?」
 エレベーターの扉が開くのを待っていると、ふいにイオリが口を開いた。
「へっ?」
 瀬奈は裏返った声で聞き返した。
 いやあ、ここの所巻き込まれてること全部悩みですけど、それが何でしょう。でも一番は今日のアンジェリカの誤解ですけれども。何せ、ビビッている対象は目の前にいますので。
「今日のお前、いつもに拍車かけておかしいだろ。普段はただの間抜けだけど、今日は変だな」
「なに、そのムカつく括り」
 瀬奈の眉がぴくつく。
 そこでちょうど扉が開く。エレベーターに乗り込み、三階のボタンを押してから言う。
「別に、大したことじゃないよ。だからイオリは気にしないで」
 イオリは、というところに力を込める。そう、イオリが知ったら瀬奈的には一貫の終わりなのだ。
「じゃあ何でそんな挙動不審なんだ?」
 じろ、と怪しいものを見る目で睨まれる。
「失礼な! 私のどこが挙動不審なのよ!」
 瀬奈もまた軽く睨んで言い返す。そこでエレベーターが止まり、扉が開く。外に出て、自分の部屋の方へ廊下を歩きだす。
「なんか妙なもんでも食ったんじゃねえかって心配してんだよ。マジで平気なのか?」
 イオリは瀬奈の反論をさらりと無視して、思ったより真面目に訊いてくる。その中身は何だか微妙だが、心配しているのは伝わってきたので、瀬奈はうっと言葉に詰まった。
「えーと、ええと……」
 必死で良い言い訳を探すが、元々そんなに回転の良い頭をしているわけでもないので、見事フリーズした。
 仕方なく、一つ息を吐くと、白旗を揚げて白状する。
 きっとひどく嫌そうな顔をして、嫌そうに何か言うだろうと覚悟していたが、イオリの反応は予想外にも目を丸くしただけだった。
「へえ、そんな噂が……。……都合良いな」
 終わりの方をボソリと呟く。
 瀬奈は眉を寄せる。
「何? 文句あるんならこの際はっきり言って! 絶対に、すっごい嫌そうな顔すると思って覚悟してるから大丈夫!」
 意を決して申し出ると、イオリは呆れたような顔になる。
「はあ? 何でそうなるんだ? そこまで失礼なことしねえっての」
「だって、嫌じゃないの? 面識もない人に、その、付き合ってるとか噂されて。イオリだって好きな人の一人や二人いるでしょうに」
 口の中でごにょごにょと言う。とても口に出すのがためらわれたが、無理矢理言い切った。
「……二人もいたら問題あるだろ」
 疲れたように言うイオリ。
 特に怒るわけでもないイオリの対応に、瀬奈はひどく落ち着かない気分に陥った。こういう話題は、何となく自分の柄じゃない気がする。彼氏とか彼女とかそういう単語には憧れるけれど、どこか自分とは無関係なところの出来事のような気がしていた。
(ああ、あとちょっとで自分の部屋なのに。早く荷物取ってこなきゃいけないのに、何でこういう流れに?)
 内心で首をひねる。が、元を辿れば自分のせいだと思い、自業自得だとがっくりする。
「文句無いなら、いいけどさ。荷物取ってくるよ」
 この会話を続行しては、妙な泥沼に陥りそうだ。瀬奈はひとまず用事を片付けてくることにする。
 が、思いがけず呼び止められた。
「ちょっと待った」
「え?」
 振り返ると、イオリは真剣な色を称えた目をしてこちらをじっと見た。
「な、何?」
 何故だか金縛りにでもあったみたいだ。雰囲気に呑まれ、瀬奈は同じようにじっと見返した。何でこんな目で見てくるんだろう。やっぱり怒ったのだろうか。
「いっそのこと、本当に付き合わないか?」
 瀬奈は無言のまま、意味を頭で反芻する。
 付き合わないか、というのは、勿論どこかに行くのに付き合えとかそういう類の意味じゃなく、交際を申し込んでいるわけ、で――……。
 理解した瞬間、ボンッと顔が赤くなった。一気に気が動転する。
「ま、まさか。冗談でしたーとか、そんなオチだったり?」
「するかっ。んな性質の悪い冗談言うかよ、俺は本気で言ってんの」
「で、ででででも! 待って、何でそうなるの? だって、私だよ? イオリみたいに顔が良い訳でもないし、取り柄なんてハティンくらいだし、迷惑ばっかかけてるしっ」
 有り得ない理由を混乱もあって並べ立てる。そう、こんなので一体どうして付き合おうなんて思えるのか。
「んなもん知るか、気が付いたら好きになってたんだから。――ああもう、あんま言わせんなよ恥ずかしい」
 イオリは顔の半分を右手で多い、ごまかすように横に視線を逃がす。
 それで十分に理解した。本気で言ってくれてるんだ。
 でも、今まで迷惑をかけっぱなしの友達だと思っていたから、返事に困ってしまう。イオリのことは好きだけど、そっちの“好き”なんだろうか?
(ど、どうしたら……。何て返せば良いんだろ……)
 すっかりうろたえていると、見かねたのかイオリは口を開いた。
「返事は今度で良いから。考えといてくれよ」
 告白時の常套句のような言葉に、しかし確かに今はパニクっているせいで答えられそうにもないので、瀬奈は無言でこくりと頷いた。
「あ、あの、それじゃ荷物取ってくる……」
「ああ。俺はここで待ってるから」
 部屋の扉の脇に立ち、そう言うイオリに背を向け、瀬奈は部屋に駆け込んだ。顔が熱い。何より、どんな顔をしていれば良いか分からない。
 扉を閉め、ほうっと息をつく。
 どうしよう、という言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡っている。
 誰か良いアドバイスをくれないものだろうか。もうこの際、さっき恨めしいと思ったばかりの神様でもいい。
 瀬奈は玄関口で靴を脱ぐと、うつむき加減に部屋の方へと歩いていく。この国では土足が普通だが、瀬奈は靴を脱ぐようにしている。でないと、すぐに部屋が汚れてしまうのだ。土足しないだけで、ずっと掃除が楽になる。
 瀬奈の部屋は1DKで風呂とトイレは別に付いている。ダイニングスペースが広いので、ベランダに続く扉の前の床には新聞紙を広げ、そこで油絵を描いている。だから、いつもイーゼルと小さな椅子はそのままにしていた。
「良い絵だね」
 そこに見知らぬ男が座っていて、そんな風に声をかけてきた。瀬奈はぎょっと目を見開く。男の歳は三十代くらいで、黒髪灰色目の中肉中背。いわゆる、どこにでもいそうな人間。
 男がいるという事実が信じられなくて、瀬奈は思わず息を呑んだ。この部屋にはいるはずのない人間(・・・・・・・・・)だ。何故なら、部屋には鍵がちゃんと掛かっていた。オートロックだから閉め忘れも無い。
 咄嗟に玄関まで踵を返す。しかしダイニングルームを出る前に腕を掴まれて引き戻され、加えて口に布を押し当てられた。
「――っ!?」
 無我夢中で暴れるが、全くもって意味を成さない。しかも何かの薬が染み込まされていたのか、頭の芯がぼんやりしてくる。
「はい、これで七人目」
 意識が途切れる寸前、男のふざけたように言う声が聞こえた気がした。


 瀬奈の部屋の扉脇に立ったまま、イオリは小さく息を吐いた。
 つい勢いで告白してしまった。しばらく言う気はなかったのに。
(だけどまあ、あいつすっげー鈍いし、言ったくらいが丁度良いかもな)
 ちらりとそんなことを考える。
 告白した瞬間、真っ赤になっていた瀬奈を思い出す。あれなら、少しくらいは脈はあるかもしれない。うんうん、と一人頷く。ちょっとくらい希望を見たってバチなんて当たらないだろう。
(ん?)
 ふと、室内で物音がした気がした。ガタガタと暴れるような、そんな音。
(荷物まとめるだけで何やってんだ?)
 怪訝に思って片眉を上げていると、ふと、瀬奈の部屋の扉から男が一人抜け出てきた。
「――は?」
 思わず、間の抜けた声を漏らす。
 何故って、男は扉を開けて出てきたのではなく、扉のある部分をまさしく通り抜けてきたので。
「げ、警備隊員?」
「………」
 しばし、見つめあう二人。しかしイオリはすぐに、男が小脇に抱えている人間が誰かに気付いて、ガンホルダーから銃を抜いた。
「止まれ! そいつを降ろして、両手を挙げろ!」
 銃を突きつけ、声を張り上げる。
 男はそろりと、意識を失っているのかぐったりとしている瀬奈を床に降ろす。――そして。
「なーんてな、じゃあな少年!」
 そんなふざけた言葉とともに、床を通り抜けて三階から姿を消した。
「なっ!」
 イオリはぎょっと息を呑み、バッと手すりに飛びついて下を覗き込む。見れば、男は瀬奈を抱えたまま二階の廊下に着地し、また床を通り抜ける所だった。
「クソ!」
 イオリは悪態をつくとともに走った。階段を使って下へと降りる。
「待ちやがれ!」
 一階に着くなり、男がいるだろう場所に回りこむ。するとそこへ黒塗りの空遊車(ホバー)が割り込み、イオリの前に乱暴に立ち塞がった。
 やむなくイオリが足を止めた隙に、男は車に乗り込んでしまう。そして、すぐに車は急発進する。
「っのやろ、なめた真似しやがって……っ!」
 イオリはどこかの悪役のような悪態をつき、すぐに通信機を取り出して本部に連絡する。応答したカエデに、車のナンバーと特徴、それから男の特徴を告げ、すぐさまエアバイクに飛び乗った。
 だが、追いかけたもののあっという間に撒かれてしまい、道端にバイクを止め、イオリは半ば八つ当たりでバイクのハンドルを殴りつけたのだった。


「まさか、ハティナー狩りにハティナーがいるとはな」
 リオはむすりと顔をしかめた。
 その前では、イオリがすっかり荒んでしまっている。
 無理もない。護衛としてついていたのにも関わらず護衛対象を目の前でさらわれた挙句、華麗な逃げ方に成す術なく撒かれてしまったのだ。
「俺だって予想外だ! クッソ、まじふざけやがってあの野郎!」
 護衛対象を床に置くように言ったら、そのまま床を通り抜けて逃げられた。
 そんな話を聞かされて、リオもまたイオリの腹の煮えくり具合が分かったので何も言わない。自分だってその状況ならそうしただろうし、そしてこうなっていただろう。想像だけでも腹が立つ。
「そうですね、その話だと〈透過〉のハティナーでしょう。何件か報告例があります」
 警備隊からの報告を聞きつけて駆けつけたカジは、そう言って溜め息を零した。
「ああ、頭が痛い。まさかハティナーが犯罪組織にいるなんて。まあハティンの悪用者なんて腐る程いますけど、ハティナー狩りに混ざっているのは大変珍しいですね」
 ハティナーはハティナーに対して甘い。そして、ハティナーを物扱いするハティナー狩りやブローカーに対して嫌悪感を持つ者がほとんどだ。それなのに、この事態。かなり深刻である。
「でもまあ、幸いなことにセナさんには別件で発信機を持ち歩いて貰っているからねえ。居場所の特定は出来るはずだよ。ついでに、根城を一網打尽にするのはどうかな?」
 フォールの提案に、イオリとリオは同時にフォールをねめつけた。
「「セナを囮に使うと?」」
 声まで揃う。
 二人の眼光に射すくめられたというのに、フォールはのんびりと構えている。
「どうせ助けに行くんだし、丁度良いじゃないか」
 そう言われればそうかもしれない。
 リオは睨むのをやめる。
「あー、ちょっと待った。その話ストップ!」
 救出方法について考えを巡らせ始めた時、場違いな軽い声がロビーに響いた。
 振り返ると、クライトが入ってくるところだった。
 クライトは飄々と笑う。
「それなら、もっとマシな方法がある」
 そう言って、茶封筒を掲げて見せる様は、リオから見てもかなり胡散臭かった。

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