虹色のメロディ編 第二部 情報流出事件編

七章 イリス 

 いきなり照明が消えたと思ったら、いきなり誰かに腕を掴まれて、そして気付いたら肩に担ぎ上げられた。
 一体何だ、これは何事!?
 仰天して叫びたかったが声は出ないし、暴れようにも器用に膝裏を押さえ込まれて動けない。
(っていうか、そもそも誰!?)
 その誰かは暗闇の中を素晴らしい速度で駆け抜けていく。
 お陰で、闇で何も見えない瀬奈には恐怖体験だった。お化け屋敷だってもう少し周りが見える。
 そうこうしていると、いきなりパッと周囲が明るくなった。
 ひょいと床に下ろされて、瀬奈は床に座り込んだまま目を瞬く。エレベーターに乗り込んだらしい。ここは照明が点いていて明るい。
 思わず電子盤を見ると、数字がどんどん上がっているのに気付いた。光っているボタンの数字といい、どうやら屋上を目指しているらしい。
「手荒にしてすみません」
 担いでいた人がそう謝った。
 それで初めてちゃんと相手を見る。
(お、女の人……)
 瀬奈は唖然とした。あれだけ簡単に人間一人を担ぎ上げたり、身軽に動いていたりしたから、てっきり男だろうと思っていた。
 女は、腰まであるウェーブのかかった青銀色の髪を無造作に背に流し、スッと背筋を伸ばして立って瀬奈を見下ろしていた。しかし目を覆うように、ゴーグル――もしかしたらサングラスの一種なのかもしれない――を付けていて、目の色は分からないし表情も読みにくかった。いや、実は単に無表情なだけなのかもしれない。
 驚いたのは女の服装である。まるで映画でスパイ役が身に着けているような、真っ黒なライダースーツを着ていて、靴も黒いシューズだ。しかも腰や太腿などには黒光りする銃を幾つも装着している。物騒極まりない。それから、何故か背中に金属製の箱を背負っていた。何だろう、あれ。
 色々と問い詰めたいところだが、あいにくと首に付けている機械のせいで声が出ない。
 無言で女を見ていたら、女はすぐに気付いた。
「抑声機ですね。外しますから、動かないで下さい。これは気を付けないと声帯を痛める作りになっているんです」
 何ですと!? 
 瀬奈はその淡々とした一言でピタリと静止した。
 女は抑声機の側面に手を当てて、カバーを外す。そして点滅している部品に指先を押し当てた。
 カチッという音がして、首の圧迫感が消え失せる。
 瀬奈には何をしているか見えなかったが、あっという間に機械を外してしまった女の手際の良さに感心した。
「ありがとう。ええと、あなたは一体? 警備隊の人?」
 きっとそうだろうと思ったのだが、意外にも女は首を振った。
「いいえ、そのような公共機関とは何の関連もありません。私はお父様の命令で、貴女を迎えに来ただけです」
「お父様?」
 瀬奈は眉間にぐっと皺を寄せた。
 さっぱり心当たりの無い単語だ。
「それって、人違いじゃない? 私にはそんな呼び方される知り合いはいないわ」
「いいえ、貴女です。私には分かります。一緒に来て頂ければ、すぐに理解されるはずです」
 女はそう言ってから、瀬奈の頭に視線を向け、尋ねた。
「この飾りは取って宜しいですか? これからこの建物を脱出する際、もしかすると怪我の原因になるかもしれません」
 確かに。瀬奈の髪はヘアピンなどで固定されているから、転んだりしたら怪我しそうだ。
「取っちゃって下さい。重くてしょうがないし」
 瀬奈は言いながら、忌々しい飾りを引っ張った。幾つかは自力で外せたが、残りは他人の手を借りるか鏡でも見ないと取れそうになかった。
「無理に取らないで下さい。貴女のことは無傷で保護するようにとの命令ですから、何かあると困ります」
 女は言いながら、てきぱきと飾りやヘアピンを外していく。終わると、頭が軽くなった。無理矢理ヘアピンでとめていた時の皮膚の突っ張り感もない。
 何となく、瀬奈の肩の力が抜ける。肩こりしそうだったから嬉しい。
 しかしそれにしたって、お父様とかこの人って何者? このままついていって良いのかな。
 不安だが、かといって戻るわけにもいかないし。そういえば、不可抗力とはいえフロウを一人で残してきている。大丈夫だろうか。
 心配ではあるものの、とりあえず目の前の疑問の解消をすることにする。何者かは分からないが助けてくれるみたいだし、自己紹介くらいしておかないと。
「私、セナっていうの。あなたは?」
「それは名前を尋ねている、という認識で宜しいでしょうか」
 不可思議な返答が返ってくる。妙にぎこちない。
「そうだけど……」
 瀬奈は首を僅かに傾げる。この言い回しで、他に訊くことってあるのかな?
「それなら、イリスです」
「イリスね」
 瀬奈はパッと表情を明るくする。
「良いわね、虹の女神と同じ名前だわ」
 ギリシャ神話に出てくる虹の女神の名前がイリスだったと記憶している。高校の図書館で古代建築の本を眺めていたら見つけて、気に入ったから覚えていたのだ。
 すると、イリスは頷いた。
「はい、私もそう聞いています。空落人の伝説をまとめた本、ローネム・リングレンド作、『空より来たりし人』の314ページ五行目にも書いてありました」
「そ、そうなんだ。記憶力良いのね」
 まさかそんな答えが返ってくるとは思わなかったので、瀬奈は唖然と返す。
 ますます不思議な女だ。ミステリアスというより、生きた神秘みたい。
 そこでイリスは瀬奈の腕を取って立たせた。
「屋上に着きます。そちらの壁側に隠れて、じっとしていて下さい」
 そう言うイリスは操作盤の方の壁に背中を付けた。
 一体、何が起こるのだろうと緊張しながらも、言われた通りに反対側の壁に背中を付けて、瀬奈は身を縮めた。
 そしてふと気付く。
 私、いつの間にかトラブルの渦中にいないだろうか。
 そうでなければ良いと期待半分に思うのだが、きっとそうなのだろうとどこかで確信する。けれどすぐに、それは違うなと思い直した。こんな会場にいる時点ですでにトラブルの真っ只中だった。気付いたところでさっぱり嬉しくないけど。


 * * *


 エレベーターが屋上に着いて、扉がゆっくりと開いた。
 それと同時にイリスは身を乗り出し、先の闇に向けて発砲した。
 パスッパスッという乾いた音が耳に届く。
「……もう大丈夫です。行きましょう」
 イリスは軽く周囲を確認してから、驚いて硬直している瀬奈の手を掴んで歩き出した。
 何が何だか分からないが、不穏な気配だけは伝わってくる。瀬奈は驚きながらも歩調を合わせて歩き、ふいに暗がりに倒れている人間を三人見つけて息を呑んだ。
「ま、さか、殺し……?」
 冷や汗がどっと吹き出る。
「いいえ、眠って頂いただけです。あまり騒ぎを大きくするのは得策ではないとのお父様の命令です。――殺した方が楽ではありますが」
 何の感情もなく淡々と付け加えられた一言に、瀬奈の心臓が大きく鳴る。
「一体、あなた何なの!」
 急に、目の前の女が得体の知れないものに見えた。背筋に悪寒が走る。
 瀬奈が腕を振り払って声を荒げると、イリスは小首を傾げる。青銀色の髪がさらりと揺れて、星しかない夜闇の中で水面のように光る。
 その様子は息を呑むほど美しいが、動作は機械的だった。
「イリスです。先程名乗りましたが」
「そうじゃなくて……」
 噛みあわない会話にイライラする。
 どうして分からないんだろう。人に危害を及ぼすのはいけないことなのだ。怖いことだって、分かるはずなのに。
 それとも、命令だと無感情に言うイリスにイライラするのだろうか。命令なら、何でもするのか?
「申し訳ありませんが、ここで会話をしている時間的余裕はありません。もし会話の続行を希望でしたら、脱出後に承ります」
 イリスはぐいぐいと屋上の端に瀬奈を引っ張っていきながら、そんなことを言う。
 反論したかったが、それよりも疑問が頭をかすむ。
 どうして、そんな端の方に行くのだろう。
 と、思ったら、会場の時と同じようにいきなり身体が浮いた。
「!?」
 瀬奈はぎょっと目をむいた。
 俗に言う、お姫様抱っこ状態。
「な、何するの!?」
 慌てたのはそちらではない。イリスがその状態のまま、建物のへりに足をかけたせいだ。この建物、エレベーターの階数を信じるなら50階建てのビルのはず。地上からの風で前髪が煽られた。
「口は閉じて下さい。舌を噛みます」
「はっ!?」
 息を呑んだ状態のまま、顔いっぱいに風を感じた。
 瀬奈は大きく目を見開いた。
 目に映るのは、黒い中にささやかな星屑をたたえる夜空、青灰色の街並み、ぼんやりと浮かぶ街の光。
 それが見えたのは一瞬だけで、すぐに猛烈なスピードで後方に過ぎ去った。
「……!!?」
 気付いたら、イリスは瀬奈を抱えた状態のまま、隣の高層ビルの端に立っていた。
「え? え? ええっ?」
 目を白黒させる瀬奈。
 対岸に見えるさっきのビルとこのビルの間は優に20mはある。それをイリスは助走もなくひとっ跳びで飛び越えたのだ。助走があったって、人間技ではない。
「は、ハティナー……?」
 混乱しつつ、思ったことを口に出す。
 イリスはすたすたとビルの屋上を横切りながら、あっさり返す。
「いいえ、違います」
(だったら何で!?)
 瀬奈は内心で叫ぶ。
「先程も言いましたが、口は閉じていて下さい」
 え? と思ったら、また顔に風を感じた。イリスが再び屋上から跳んだのだ。


 一方、その頃、第五警備隊はオークション会場の外周包囲の指揮をとっていた。
 はっきり言って、第一警備隊が動くまで暇だ。動いた後も暇になるかもしれない。
 何故なら、会場から逃げた関係者の捕縛が任務だから。もし彼らが逃げる隙もなかったら、自分達の出番は来ないわけだ。
 そんな訳で、解決までじりじりと待っていたら、ふとイオリは奇妙なことに気が付いた。
 瀬奈の発信機の所在を示す小型機械の盤面に、変化があったのだ。何故か、ビルからビルへ物凄いスピードで赤い光の点が移動していく。
「隊長! おかしいことになってんだけど」
 思わずすぐ側にいたフォールに問えば、フォールは顔色を変えた。
「これは……。故障にしちゃ妙だ。セナさん、関係者に連れ出されたのか?」
「どっちにしろ、追わなきゃならんだろ。フォール、ここは任せた。行くぞイオリ、そっちに乗れ!」
 話をしている間にも、光の点は移動していく。
 リオは即決して空遊車(ホバー)に乗り込む。その助手席にすぐさまイオリも飛び乗った。
 フォールが声をかける暇もなく、空遊車は走り去る。
「……カエデ、念の為、準備しといて」
 怪我して帰ってくる可能性を考え、フォールは傍らで待機しているカエデに話しかける。
「ええ、了解です」
 カエデはピシッと敬礼してから、ワゴン型の空遊車の方に歩いていく。
「何事もないと良いんだけどねえ」
 フォールは溜め息混じりに呟いたものの、何事か起きているという予感はした。それに、リオが向かった時点ですでに起きているといった方が正しい。
 彼女の事件への鼻の良さは半端ないのだ。女の勘を軽く凌駕している。


 幾つかのビルの谷間を飛び越えた所で、ふと、イリスは瀬奈を抱える手に力を込めた。
「――ここを降ります。死にはしませんので、安心して下さい」
「………」
 ここに来るまでに、もう何が起きても騒ぐまいと心に決めていた瀬奈だが、その言葉には流石に頬を引きつらせた。
 ――“降りる”? “落ちる”の間違いじゃなくて?
 そう思った瞬間には、イリスはビルを飛び降りていた。
 冗談ではないのは瀬奈の方である。
「きゃあああああっ!?」
 落下する。お腹の辺りが奇妙な感じ。浮遊感なんてものじゃない。
 ザナルカシアに落下してきた時は現実離れしていた。でもあの時と同じ状況だ。
 涙目で悲鳴を上げながら、近づいてくる地面を凝視する。
 ああ、死んだ。
 次に気付いたら、絶対に自分は死んでいる。
 真っ白になった頭の隅でそんなことを思っていると、落下の速度が徐々におさまり、ふわりと身が浮いた。
「……?」
 ゴオオという噴射音が聞こえる。
 しかも痛くないし、十メートルくらい下に見える地面と距離が縮まることがない。
 どういうことだとイリスの顔を見たものの、すぐに音の正体に気付いた。イリスの背中にある箱から音がするのだ。
「……しくじりました」
 はい? と訊こうとして、声が出ないのに気付く。
 心臓がバクバクと音を立てている。絶叫アトラクションに乗った後、そのショックのせいで声が出なくなった時に似てる。怖すぎて両手を握り締めるしかなかったのだ。
 それを思い出したところで、自分が両手を痛くなるくらい握り締めているのに気付いた。強張った指を、無理矢理外す。
「止まれ!」
 ハスキーな女性の声が、制止の声を上げた。
 チキリ、という金属音が耳に届く。
 それよりも先に、女性が誰かに気付く。
「リオ!」
 目を丸くして、地上で銃を構えているリオを見下ろす。
 ビルとビルの間にある路地裏。そこに青い塗装の施された警備隊の空遊車が停められていた。そして、そのすぐ側の壁に、黒塗りのエアバイクがあるのに気付く。
 さっきのイリスの言葉から察するに、あのバイクに用があったのかもしれない。


 発信機の光を追って路地裏まで来たら、突然、光の点の移動が止まった。
 リオがすぐに車を道の脇に停め、車を降りて周囲を見回す。
 イオリもまた、発信機片手に車を降りた。この辺りに瀬奈がいるのだろうと思ったが、壁際にバイクが駐車されているだけで、何も無い。
 ふいに、上の方から悲鳴が聞こえたのに気付いて、何気なく空を見上げた。
 何か白いものが降ってくる。
 凝視していたら、落下が止まって、白いものとそれを抱えた黒い人影が宙に浮かんだ。人影の背中には四角い箱があり、バーナーの燃えるような音を立てて白い気体を吐き出していた。噴射の勢いで、宙に浮かんでいるのだろう。
「止まれ!」
 リオが銃を構え、空中の人影に向けた。
「リオ!」
 驚いたような聞き慣れた声が聞こえる。
 それを聞いた瞬間、イオリも銃を抜いて、人影に照準を合わせた。
 気付いたリオが、目は人影に向けたままで釘を刺してくる。
「おい、お前は撃つなよ。セナに当たる!」
「分かってるよ、ただの威嚇だ!」
 ったくどいつもこいつも。
 俺が銃の腕がどん底に下手なのは、別に俺のせいじゃない。神様からのいらない贈り物だ、こんちくしょう!
 心の中で盛大に舌打ちしつつ、イオリは眉間に皺を寄せた。
 第一、撃ったところで人影やセナに当たるどころか、恐らく見当違いの場所に着弾するだろう。あいにく、試す程の度胸はないが。
 そうこうしているうちに、道の出口二つを第一警備隊の空遊車が押さえた。中から、警備隊の面々が出てきて、リオと同じように銃を構えた。
「そこの君! 周りは包囲されている! 人質を放し、武器を捨ててすぐに投降しなさい!」
 リーダー格と思われる男が拡声器片手に叫ぶ。
「やかましい奴らだ。煽るんじゃないよ」
 リオの不機嫌な呟きがイオリの耳に届く。聞こえたのはイオリだけに違いない。
 人影はしばらく宙に浮いて、じっと周りを見ていたが、ふいに小さく頷いた。
「分かりました。放しましょう」
 声が女だったのに驚いたが、言っている言葉には目を点にする。
 そしてその言葉が紡がれるとほぼ同時に、人影は手をパッと広げた。
「へっ?」
 瀬奈の間の抜けた声が聞こえた。彼女は落ちていると気付くや否や、すぐに悲鳴を上げた。
 血の気が引いたのはイオリの方も同じだ。思わず銃を投げ捨て、走り出す。
 瀬奈が落ちてくる場所に合わせ、スライディングをかます。
 両腕に人一人分の確かな重みを感じた。
「――また迎えに参ります」
 女の声が上から落ちてきて、人影が揺れた。
「撃て!」
 さっきのリーダー格が命令を出し、闇に無数の火花が咲く。
 しかし人影はそれを全て避けて、そのまま手近なビルの窓に突っ込んだ。ガラスの割れるかん高い音が周囲に響く。
「ちっ、逃したか。おい、奴を追え! ビルを封鎖しろ!」
 了解しました!
 他の隊員の声が響いて、辺りは俄かに騒がしくなる。
「おい、大丈夫か! 怪我は?」
 受け止めた瀬奈を地面に座らせ、肩を掴んで覗き込む。
 落下のショックで放心していた瀬奈はそれで我に返り、初めてイオリに気付いた。
「ふぇ? イオリ?」
 ぽかんとしていた顔が、だんだん事態を飲み込めた顔になる。
 そして、キッと眉が吊り上がった。いきなり立ち上がる。
「私は物じゃな――いっ!!」
 瀬奈は人影の逃げた方に向かって盛大にぶち切れた。
「もう、何なわけ!? 荷物みたいに担いだり運んだり落っことしたり! 腹立つーっ!!」
 通りすぎる第一警備隊員がぎょっとしたように瀬奈の方を見、何も見なかったように目を反らして通り過ぎていく。
「ねえ、むかつくと思わないっ? 腹立つでしょ? ねえ、そう思うでしょ!」
「あー……、とりあえず元気っぽいのはよく分かった」
 イオリは額に右手を押し当てた。
 心配したのが馬鹿だったような気がしてきた。しかも心なしか頭痛を覚える。
「――セナ」
 イオリの投げ捨てた銃を拾い、リオがこちらに歩いてきた。
「何があったか話してくれるか?」
 リオはそう問いかけながら、イオリの手に銃を押し付ける。
 悪い、と謝りつつ、それを受け取ってガンホルダーに入れる。
 無言で頷いた瀬奈の顔が一気に疲労で染まる。
 それから瀬奈はイオリの方を振り向いて、小さく笑った。
「助けてくれてありがと」
Copyright© 2006〜 Seturi Kusano All rights reserved.  designed by flower&clover