合宿二日目の午後は自由行動という予定になっていた。
瀬奈は浮き浮きしながら、鞄からスケッチブックを取り出した。流石に画材を持ってくる余裕はなかったので、スケッチだけでもしようと持ってきたのだ。勿論、筆記用具も。
「ねえセナ、ここなんて面白そうじゃない? 展望タワーと、時計屋と、ガラス工房!」
さっきから宿舎の部屋のベッドに腹ばいに寝そべり、観光雑誌をめくっていたアンジェリカがひょこりと顔を上げた。
同じ班になったミーガンとアンジェリカと瀬奈で同室だ。ミーガンは鏡に向き合い、髪に必死の様子でストレートパーマ用のヘアアイロンを当てている。天然パーマのせいで、髪が上手く纏まらないみたいだ。
「ガラス工房? へえ、そういうのあるんだ」
どこの世界も、観光名所は似たようなポイントになるらしい。
「そうね。ロボット工房兼人形屋とか、造花屋とかも載っているわよ? でも、機械工房ばっかり見ても面白くないでしょ? 遊びも入れなくっちゃ」
アンジェリカはにやりと笑い、おいしそうな食べ物の話や出店の場所も挙げていった。その結果、近場を選んだら三つの場所に絞られたらしい。
「アンジェリカの行きたい所でいいよ。私は、広場にでも行ければそれでいいし」
観光したら、広場でのんびりスケッチでもしてよう。そんな心積もりで瀬奈は言う。
「いいの?」
「うん、だって私、ここに来るの初めてだから、どこが良いなんて分からないもん」
アンジェリカは「そっか〜」とだけ返し、ミーガンに声をかける。
「あんたはどうするの?」
ミーガンはアイロンを押さえたままで答える。
「私? 私は勿論、彼氏と回るわ。じゃなきゃこんなに苦労してお洒落するわけないじゃない」
自分に正直なミーガンの返答に、瀬奈とアンジェリカは顔を見合わせ、軽く肩をすくめた。
「あそこまで堂々とのろけられると、いっそ呆れちゃうわよね〜」
「あはは」
観光マップを手にして市街地へと出ると、アンジェリカは声も呆れかえらせて言った。瀬奈は笑みで返す。
「ミーガンの気持ちも分からなくもないかなあ。でも、今日くらい女の子だけで回ってみたかったかも」
「そうそう! それよ! ほんっと空気読んで欲しいもんだわ」
アンジェリカは憤然と呟いたが、すぐにニコリと笑みを浮かべた。
「ま、そんなことは置いておいて。行くわよー! まずはガラス工房!」
テンションも高らかに言い放ち、瀬奈も乗って「おーっ」と手を軽く上げる。
そして、第四都市バーレの美しい市街地を歩き回った。流石は工業都市、時計屋の時計は緻密な上にデザイン性にも優れていて、見とれてしまうような商品ばかり。ガラス細工も負けておらず、ランプの傘にあしらわれた色ガラスが光を揺らめかして幻想的だった。
どれもこれも素晴らしいのだが、展望タワーからの眺めがもっと最高だった。白と青の家並みは目に爽やかで、遠くに見える港の造船所は迫力満点だ。大型船を造ったり、メンテナンスをするドックがポツポツと建っているのが特にすごい。機械的な物と自然的な物が絶妙に絡み合っている。そんな景色。
感動してほこほこした気分のまま、夕方、瀬奈はアンジェリカと分かれて広場に向かった。
町の中心にある、噴水広場だ。白い円形の台座の真ん中で、見事な彫刻の天辺から水が静かに降り注いでいる。アイスクリーム売りや軽食の屋台が点々と並び、その前を、風船を持った子供達が笑い声を上げて駆けていく。しかしもう夕方なので、屋台は店仕舞いを始め、広場内で談笑していた人達も徐々に帰っていくところだった。
瀬奈は台座に腰かけると、スケッチブックを手に、気に行った風景をサラサラと鉛筆で書いていく。
新緑の木、紫色の小さな花をつけた低木、赤と青のストライプの屋根が目立つアイスクリーム屋、親に手を引かれて歩く子供と持っている風船。
(なんだか、南国に遊びに来た気分)
書いているだけでのんびりとした気分になってきた。本当にイタリアにでも来たみたいだ。
バーレの街に流れる空気は長閑そのものだ。それでも時間には正確なところがあるようで、夕方五時を知らせる音楽が街のそこここにあるスピーカーから流れ始めた。そして、それがまるで合図であるかのように、広場内から人気が減り、がらんと静まり返る。
昼と夜との落差に、ぽつんと一人取り残された瀬奈は目をしばたたく。あんまり静かすぎて、なんとなく居住まいが悪くなってきた。手にしていたスケッチブックを閉じ、鞄に仕舞う。宿舎には六時までに帰ればいいのだが、ここまで人がいないのも物寂しい。諦めて帰ろうとしたところ、足元に薄青い影が落ちた。
「?」
まだ誰かいたのか。
瀬奈は顔を上げ、目を丸くした。
青銀色の長い髪と薄水色の目をした女性が立っていた。肌は透き通るように白く、妖精がどこからか迷いこんできたような、存在感が希薄な、けれど美しい人。
瀬奈はぽかんと口を開きつつ、黒いワンピースより白の方が似合うなあと見当違いなことを考えていた。
「お久しぶりです」
「……え…」
女性に静かな口調で話しかけられ、瀬奈はますますぽかんとする。
久しぶり? しかし、言われてみれば確かに、どこかで聞いた声のような気がする。
ふいに、青銀色の髪が目に止まり、記憶がフラッシュバックした。
「あ! もしかして、イリス……さん?」
思わず呼び捨てにしそうになり、急いで軌道修正する。
女性はこくりと小さく頷いた。
「うわあ、びっくりしたぁ。前はゴーグル付けてたから分からなかったけど、イリスさんてすっごい美人さんだったんだ」
身近に美形が多いせいで、美形に慣れている瀬奈ですら美人だと思ってしまう顔立ちだ。感心しきりでしげしげとイリスの顔を見つめる。
そんな美人だというのに、イリスの表情は無表情に近い。まるで明美でも見ているような錯覚を覚える。
イリスは抑揚のない声で言う。
「迎えに参りました」
「……へ?」
瀬奈は噴水の台座に座ったまま、動きを止めた。
あんまりさらーっと言うので理解するのに時間がかかったものの、理解するや両手を振った。
「いやいやいや、迎えなんてそんなっ。いらないよっ」
「貴女がそれで良くとも、お父様には良くありません」
「いや、だから前にも言ったと思うけど、私は“お父様”なんて知らないし。ここには家族はいないから」
しかしイリスは首を振る。
「いいえ、貴女がそうです。私には分かります。貴女の意見は聞けません、任務遂行を優先させて頂きます」
「任務? ……いたっ」
突然右腕を掴まれ、力任せに立たされる。
女性とは思えない腕力に、瀬奈はぎょっと目を見開く。そしてほぼ同時に怖くなった。
「ちょ、ちょっとっ」
抗議してみるが、イリスは無言で腕を引いて歩き出す。
知らない所に連れて行かれる。
恐怖で背筋が冷えた。怖い。名前は知っているけれど、知らない女の人。説明もない。でも分かるという意味不明の言葉。
衝動的に、瀬奈は左手に持っていた鞄をイリスに叩きつけた。
攻撃されるのが予想外だったのか、イリスの手の力が一瞬緩まる。その隙をついて腕を引き抜き、瀬奈は無我夢中で市街地へと走り出した。
「待って下さい」
「無理!」
瀬奈は律義に叫び返す。
待てと言われて誰が待つか。怪しい人間の言葉なら尚更だ。
イリスが追いかけてくるのが靴音で分かったので、瀬奈はますます必死に走り、捕まらないように細い路地に飛び込んだ。その後も適当に道を選んで、走って走って走りまくる。
「……はあはあ……ここまで逃げればもう来ないでしょ……」
路地の壁に手をつき、肩で息をしながら後方を振り返る。が、甘かった。青銀色が微かに視界に映る。
「うそぉ!」
一生分走った気がするのに、イリスは普通についてきている。
慌てて次の路地に飛び込む。
周囲はだんだん薄暗くなってきており、足元が危うくなってきた。もし水路にでも落ちたら、誰にも見つからないで海まで流されてしまう。それは嫌だ。嫌だが、イリスによく分からない人の所に連れていかれるのはもっと嫌だ。
路地を抜けたら、急に目の前に大きな門が飛びこんできた。黒く塗装された金属の棒が連なった門だ。
慌てて足を止め、左右を見比べる。ちょうど屋敷の中間地点なのか、どっちも広い道が広がっているだけで隠れるのに良い場所が見当たらない。
「どうしたの、お嬢さん。迷子?」
本気で焦っていたら、横合いから声がした。
慌てていて気付かなかったが、左に二十代半ばの青年が立っていた。長い金髪を一房の三つ編みに結っていて、目は夜に溶けるダークブルーだ。綺麗な顔立ちにお気楽な笑みを浮かべ、へらりと微笑んでいる。
「あのっ、ここの家の人ですか? すみませんっ、助けて下さい! 怪しい人に追いかけられててっ」
藁にもすがる思いで頼み込むと、瀬奈の顔があまりに鬼気迫っていたからか、青年は若干身を引きつつ了承してくれた。
「それは大変。さ、中に入って。そうしたら大丈夫だから」
「ありがとうございます! このご恩、一生忘れません!」
「あは、固いなあ〜」
青年はへらへらと愉快気に笑いながら、門の中へと瀬奈を促し、自身も中へ入って門を閉めた。
門が閉まると、瀬奈は安堵のあまり脱力した。が、すぐに思い直す。幾ら門の内に入れたとはいえ、あの脅威の身体能力を持つイリスなら中に入るくらい容易いはずだ。
戦々恐々としている瀬奈に対し、青年は門の脇にある操作パネルの蓋を開け、ボタンを押した。ブゥンと何かの起動音が低く響く。
「はい、これで大丈夫。ここに屋敷はなくて、壁に見えるようにしておいたから」
「え!?」
「立体画像の応用だよ。熱遮断システムもついてるから、ただの壁としか思えないはずだよ? うち、セキュリティーだけはばっちりだからね〜」
のほほんと仕掛けを暴露する青年。
「で、あれが追いかけてきた怪しい人?」
セキュリティーはばっちりとか、そんなレベルなのか?
あんぐりと口を開けている瀬奈に、青年は門の向こうを指さした。イリスがすぐそこまで来ていて、怪訝そうに周囲を見回している。
瀬奈はこくこくと無言で頷き、両手を握りしめて、そのままいなくなることを祈る。
やがてイリスは右の道へと折れ、そのまま暗い闇の中へ溶けるようにして消えていった。
「ふう。助かったぁ」
額にじっとりと浮かんだ冷や汗をシャツの袖口で拭い、瀬奈は息を大きく吐き出す。
もう。何のサスペンス映画なんだ。
「事情はさっぱりだけど、タクシーを呼ぶから、それで帰りなよ」
「重ね重ねすみません! ありがとうございます!」
相変わらず能天気そうな声で言う青年が天使に見えた。いや、もう神様だ。ありがたや。これはもう拝んで拝みまくるしかない。
瀬奈はがばっと頭を下げた。そうしながら、何だか頭の隅に引っかかるものがあったが、考えても分からなかったので、そっくり闇の彼方に放り投げておいた。