虹色のメロディ編 第五部 虹色の終息編

十六章 Iris型アンドロイド 

 アカデミーからの帰り道、瀬奈は旅行代理店の前で、とあるポスターに目を釘付けにしていた。
 ヴェルデリア国では立体画像や電子画像による広告が溢れていても、紙製のポスターはあった。それに店先にはフリーのパンフレットも置いてある。電子的に便利になっても紙媒体の方が便利というところがあり、どちらも使っている。
「平原ツアーかあ……」
 ヴェルデリア国は平原と森の二つのエリアに分かれており、平原は第五警備隊のような警備組織が守り、森は別の組織が守っているのだそうだ。
 人々の多くは平原の都市部で暮らし、少数の物好きが平原にぽつぽつとある村で自然に身を置く生活をしている。
 平原は丈の短い草が生えているだけで、特に目立つ物はないのだが、そんな場所をわざわざ歩いて横断するというのが最近の流行なんだそうだ。
 瀬奈が見ているポスターは、都市間を踏破するような大変なものではなく、一定区画だけ歩き、残りは空遊車のバスで移動になる簡易なものだ。
「イオリ、こういうの好きそうだよなあ……」
 べったりとポスターに張り付いて、じぃっと見つめる。
(この値段なら、私のお小遣いでも行けるかな)
 学費と生活費をバイト代で賄っているので、あまり贅沢は出来ないのだが、この程度ならばお小遣いに収まるので出せる。それに、治癒のハティナーは希少性が高いので、バイト代は結構な値がするのだ。最初はお金の価値観がよく分かっていなかったので、こんなものなのかなあと貰っていたが、だんだん慣れてくると恐ろしくなるくらいには高給だったりする。ハティナーがバイトをするとたいてい高い値段がするそうだが、治癒は特に高いそうだ。
 それでも、体力面を考慮して、週末に一件入れるか、多くて三日に一度がたまにといったところなので、生活費と学費、それから住民税などを払うと結構ぎりぎりだったりする。
「その案件に興味がおありデシタラ、コチラをドウゾ」
 電子音声が横から聞こえ、そちらを見ると、キャタピラ付きの台座に四角い機体と丸いレンズがついたロボットが、三本指でパンフレットを差し出していた。案内用ロボットだ。
「ありがとう」
「イイエ。そちらのツアーに申し込みされる場合は、当社のホームページからドウゾ」
 ロボットはそう言うと、静かなモーター音とともに店の中へ戻っていった。
「はい……」
 瀬奈はパンフレットを受け取った格好で返事をして、ロボットが去るのを見送る。
 何回見ても、ロボットには驚いてしまう。
 ザナルカシアにもザナルカシア独自のインターネットが存在するので、会社はそれぞれホームページで広告を出していることが多い。こちらでは生まれた時に個別IDを与えられるので、それによってそれぞれがデータベースへの接続権を持っている。空落人である瀬奈は勿論個別IDも戸籍もなかったので、第五警備隊隊長のフォールやリオが用意してくれた。どうやって用意したのかは分からないが、やり手の二人のことだから気にしないことにしている。
「イオリに言ってみようかなあ……」
 付き合い始めてから、どこかに出かけるといった形のデートはまだしていないのだ。ちょっとくらい夢を見てもいいと思う。
 瀬奈はパンフレット片手に笑みを零し、軽い足取りで帰路に着いた。


 そして、翌日。
「こんにち、は――……?」
 アカデミー帰りに第五警備隊の本部に顔を出した瀬奈は、ざわざわと騒がしい本部の様子に入口で足を止めた。
 白いシャツに黒いベストや上着、ズボンという警備隊員の制服姿の男性や女性が、忙しく出入りしている。
(忙しそう……。出直そうかな)
 第五警備隊の本部にこんなに人が出入りしているのは初めて見た。仕事の邪魔になるのを恐れた瀬奈は、一歩後ずさり、振り返ったところで何か柔らかいものにぶつかった。
「わぶっ」
 顔から突っ込んでしまい、奇妙な声を漏らす瀬奈。
「おっと、大丈夫か?」
「ふぁい、すみません……」
 鼻を押さえながら相手を見ると、灰色の髪をして黒いサングラスをかけた長身の男と目が合った。それが第一警備隊隊長、つまり警備隊という組織の一番上に立つという青年――クライトだと気付くや、瀬奈は顔を青ざめさせて後ろに飛びのいた。
「わわ、ごめんなさい!」
 慌てふためく瀬奈を見て、小さく吹き出したクライトは、口元に笑みを浮かべた。
「ぶつかったくらいでそんなに驚くなよ」
「気にしなくていいわ、セナちゃん。今のは明らかにわざとだったから」
 クライトの左斜め後ろに凛と立っている秘書兼護衛のノイアが、涼やかな口調で言った。瀬奈はますます慌てる。
「え!? わ、わざとなんかじゃ……っ」
「あなたじゃなくて、隊長がね」
「は? え? 意味がよく分からないんですが……」
 どうして“わざと”になるのか分からず、瀬奈は目を瞬く。クライトがちょっかいをかけたい女性に対し、わざとこうやってぶつかるようにして取っ掛かりを作るのを知らない瀬奈にはちんぷんかんぷんだった。
 逆に混乱してしまったのを見て、ノイアはにっこり微笑んで誤魔化した。
「分からないならいいわ。中に用事?」
 綺麗な笑みだ。瀬奈はどぎまぎしながら頷く。
「あ、でも、忙しそうだからまた来ます」
「まあまあ、気にしなくていいから中に入りなよ。一応、君にも関係するし」
「え?」
 この忙しそうなのに、瀬奈が何か関係するのか?
 目を白黒させる瀬奈は、クライトがさりげなく肩に手を回してそっと押すのに気付いていない。
「怪我人でも……?」
 瀬奈に関係するとしたら、治癒のハティナーであることだろうかと推測を口にすると、クライトは首を振る。
「君の腕輪の件だよ」
 その返事に、瀬奈はうっと息を飲み込んだ。


 尻まで届く艶々とした青銀色の髪は緩やかに波打ち、まるで滝のようだ。薄水色の目はそっと伏せられ、青銀色のまつ毛が白い顔にそっと影を落としている。
 夢のように美しい女性が、第五警備隊のソファーに座っていた。表情は無に近く、それが憔悴しているせいで硬い表情をしているだけなのか、元からそんな顔をしているのかは分からない。
「イリス……?」
 瀬奈の声は思ったより小さくなった。
 そこにいたのは、お父様からの任務とか、迎えに来たと言って瀬奈をどこかに連れて行こうとしていた女性だった。
「…………」
 女性は瀬奈を見て、微かに首を傾げる。長い髪がさらりと揺れる。
 まるで他人を見るような視線に瀬奈がたじろいでいると、ノイアが淡々と後ろから注釈してくれた。
「彼女の名前はユーリエ・オラニス。例のニノ・オラニスの娘よ。死んだ、ね」
「死んだ? え? でも、ここにいるじゃ……」
 変な謎かけみたいだ。瀬奈がうろんに眉を寄せると、その先を第五警備隊副隊長のリオが引き取った。
「正確には、死んだ娘の脳を移植したアンドロイドだ。外見もユーリエの生前の姿をしている。誘拐や死体を略取してまでオラニス博士が何をしたかったのか、ようやく分かった」
 突然叩きつけられた現実に、瀬奈は言葉を失くした。
 死んだ娘。その脳を移植したアンドロイド。度重なる人体実験により「狂博士」の名を冠された天才科学者。
 ――つまり、かの博士は、死んだ娘をアンドロイドという形で蘇らせたかったということなのか?
 クライトは口元に手を当て、あっさり言う。
「脳を移植したにも関わらず、記憶は無いようだがな。ここにいるのは、ユーリエ・オラニスそっくりの外見に、内蔵を詰め込んだ、ただの機械人形だ」
「そ、そんな人がどうしてここに?」
 呆けていた瀬奈ははたと我に返り、クライトを見上げる。目の前のことが強烈すぎて、相手が偉い立場の人間だという意識がすっかり抜け落ちてしまっていた。
「今日の未明、オラニスの隠れ家の一つに襲撃をかけてな。奴はすでに逃げた後だったが、代わりにこいつがいたんだ。何も知らない人形だが、あんまり出来が良すぎて人間にしか見えないもんで、扱いに困って保護することに決めてここに連れてきた。近辺の調査中はここにいて貰うつもりだ」
「そうなんですか……」
 瀬奈はぼんやりと頷きながら、イリスにそっくりなユーリエ・オラニスを見つめる。
(イリスじゃないの? どう見てもイリスだけど、アンドロイドだったら同じ見た目の機械がまだあるのかな)
 透き通るような白い肌、瞬きする薄水色の目。呼吸する様子まで、全てが完全に生きている人間そのものだ。これが機械だと言われても納得しかねる程に。ロボットに慣れているヴェルデリア人のクライト達が扱いに困るのも理解出来る。
 瀬奈はもう一度だけ、ユーリエに呼びかける。
「あなた、イリスじゃないの……?」
 ユーリエは静かに瀬奈を見て、首肯する。
「私は、Iris型アンドロイド 試作品(プロトタイプ)です」
 女性の落ち着いた声で、機械的な応答が返る。
「イリスって、セナさんが言っていたあのイリスのこと?」
 フォールが不可解そうに問う。瀬奈は頷いた。
「そう。すごくそっくりというか、どう見ても本人だけど、私のことを知らないみたい。別人なのかな?」
「さあ。まだ調査中で、詳しいことは分かっていないんだよ。他にも似たタイプのアンドロイドがいるのかもしれない。試作品ってことは、完成品もあるんだろうから」
 瀬奈とフォールの遣り取りを聞き、クライトは鋭い表情になる。
「おい、ユーリエ・オラニス。いや、Iris型アンドロイド 試作品、か? 完成品はあるのか?」
 ユーリエは沈黙し、口を開く。
「音声認識にエラーが生じました。あなたにはその問いへのアクセス権限がありません。権利者の声によるパスワード認証を行って下さい」
 この返答だけを聞いていると、ロボットという感じだが、普通の人がふざけて言っているようにも見える。
「ちっ、声とパスワードのダブルアクセスか。流石、ニノ・オラニスは用心深い……」
「パスワードさえ特定出来れば、声の合成をして賄うんですけどね」
 声が更に横から増えた。丸めた図面や工具や手持ちの小型スキャナーを手にしたイオリが横に立っていた。ソファー前のロウテーブルに工具類を並べる。
「ああ、そうだな。ノイア、現場にいるロバートに連絡して、パスワードに該当しそうな物がないか探すように伝えろ」
「了解しました」
 クライトの命令を受け、ノイアはすっと場を離れる。やや離れた所で、通信機片手にロバートに連絡を取り始めた。
 その傍らで、イオリがユーリエの隣に座り、図面片手に難しい顔をしてうなる。
「ったく、こんなごちゃごちゃした図面でこのアンドロイドを解析しろって、無茶苦茶言うよなあ。あの狂博士、どんな頭してんだ。こことここの接続系統、複雑すぎて意味分からねえぞ」
 そして、ユーリエの背中を見つめ、首の後ろに手で触れる。
 ピッという電子音がして、ユーリエの動きが止まった。
「ちょっと、イオリ! 何したのよ! っていうか、セクハラ!」
 黙ってられずに瀬奈が怒ると、イオリは目を瞬く。
「お前、話を聞いてたのか? こいつはアンドロイドで人間じゃないんだからセクハラじゃない。俺がしたのは仮停止ボタンを押しただけ。解析を頼まれたんだから、仕方ねえだろ」
「えっ、解析!?」
 驚いて、クライトを振り返る。クライトは大きく頷いた。
「うちの人間でもいいんだけどさ、そこの彼は、口と態度の悪さのせいで左遷されたけど、元第一警備隊所属の機械士だけあって腕は良い。先輩もリオもいるからね、三人で組んで解析を宜しくって頼んだんだ。だからそう怒らないでよ、セナちゃん」
 確かに、この三人にかかれば何でも解決しそうではある。だが、瀬奈はそれより驚いたことがあった。
「ええ!? イオリってば、元第一警備隊所属だったの? 喧嘩売られまくって喧嘩に強いのは知ってたけど、そんな理由で左遷されたの!? さっすが、すごいわね!」
「うるせえよ、変な感心するな。あと、第一警備隊隊長殿、礼儀知らずを承知で申し上げますが、俺の彼女をちゃん付けするのはやめてくれませんか? ついでに付け足しますと、彼女のファミリーネームはモリサトです」
 なんとなく不快に思ったイオリは、いつものように直接的に苦言を口にした。クライトは肩をすくめる。
「つまり、上司にこういう態度ばっかりとってたから左遷されたわけだね。分かった? セナちゃん」
 しぶとく繰り返し、クライトはにやりと面白そうに笑った。イオリはそんなクライトを冷たい目で睨む。更にその向こうでは、フォールとリオも援護射撃とばかりに睨みをきかせていたりする。
 何で皆してそんなにクライトを睨んでいるのかと瀬奈はしきりに首を傾げながら、異様な空気に身を僅かに引く。
「イオリ、別に良いじゃない、それくらい……。第五警備隊の皆も名前呼びだし……」
 瀬奈の取り成しに、しかしイオリではなくリオがずいと身を乗り出した。
「駄目だ、セナ。こいつだけは駄目だ」
「は?」
 瀬奈は更に身を引く。目が本気すぎて怖い。
「リオ、落ち着いて! でもセナさん、このただれ恋愛男に名前なんて大事な物を呼ばせたら駄目だよ。君が傷つくのは見たくない」
「何のお話ですか?」
 熱のこもるフォールの言葉に、瀬奈はつい敬語になった。きょとんとする瀬奈の目の前で、リオがフォールの頭を殴打する。バシッという小気味良い音が響く。
「馬鹿! お前の方が落ち着け!」
「いたっ、ごめん、リオ。つい……っ」
 そして、何やら顔を突き合わせてヒソヒソと相談し始めるリオとフォール。瀬奈は唖然とそれを見る。
「何だか分かりませんけど、別に名前呼びくらい構いませんよ? 家名で呼ぶ方が珍しいですし」
「え? ほんと? じゃあ俺のこともクライトって呼んでいいよ?」
「セナに近付くな!」
「セナさんから離れろ!」
 リオとフォールは瀬奈に飛びつくようにして、クライトから距離をとらせた。完全に家族を守る保護者の目である。
(よく分からないけど、じゃれてるのかな……。この三人って仲良いのね)
 瀬奈は見当違いのことを考えて、微笑ましく思った。
 イオリは諦めて溜息を吐き、瀬奈に言う。
「――とにかく、だ。俺らはしばらくこのアンドロイドの解析をするし、こいつもここで生活する。他言無用だし、喧嘩するなよ」
「はあ? イオリじゃないんだから、喧嘩なんてしないわよ」
 瀬奈は頬を膨らませ、ぷいっと横を向いた。

     *

 その日から、イオリやリオ、フォールは、“ユーリエ”のことにかかりきりになった。
 瀬奈は一週間のうちに何度か第五警備隊の本部に顔を出し、イオリに平原ツアーのパンフレットを渡そうと思いながらも、睡眠を削っているせいで顔色の悪いイオリを見ていたら言い出せなくなって、コーヒーを淹れてあげてから帰るばかりだった。
 機械のことはまだまだ勉強中で、何をしているのかさっぱり理解出来ないし、部外者という疎外感を感じて、こうして顔を出すのだけでも邪魔をしているような気になってきた。それに、イリスにそっくりなアンドロイドに小さな嫉妬を覚えてしまいそうで、一週間が経つと、瀬奈は本部に顔を出すのをやめた。
(なんだかなあ。心狭いのかな、私……。そんな自分、嫌だな)
 家の近くの公園のベンチに座り、紫色をした鳩が歩く様を瀬奈はぼんやりと眺める。屋台で買ったポップコーンを餌付けしてみると、鳩は必死についばみ始めた。
(いいなあ、こんな風に気楽に生きたい)
 鳩が羨ましくなってきた。
 そこに風が吹き、瀬奈は僅かに身を震わせた。最近、徐々に肌寒くなってきた。上着を持ってくれば良かっただろうかと考えながら、小さく溜息を吐く。
 腕輪の件もあるから本当は家にいた方が良いのだが、家にいると鬱々としてきて嫌になるので、気分転換として公園にいる。
「結局、話せなかったな」
 パンフレットを取り出して眺める。
「仕方ないよね。皆、忙しいんだし……」
 一目で体力を削って仕事しているのは分かるのだから、瀬奈は見守っているべきなのだ。
「セナちゃん?」
 ふと声をかけられ、瀬奈はびくっとした。そちらを見ると、黒いサングラスをかけたクライトがノイアと共に立っていた。
「え? えーと、隊長……さん? カストルさんも、どうされたんですか?」
 瀬奈が慌てて立ち上がろうとするのを、クライトは手で押しとどめた。
「ああ、いいよ、座ってて。通りがかっただけだから、そんな畏まらないでよ。それから、隊長じゃなくてクライトでよろしく」
 にかりと笑い、クライトは強調して言った。瀬奈はその勢いに圧されるように頷いていた。
「は、はぁ、すみません」
 そういえば前にも言ってたなあ。
 瀬奈は気まずく思いながら、ベンチの上で身じろぎする。お偉いさん相手に座ってていいのだろうか。
「通りがかったって、この辺りにご用なんですか?」
 瀬奈の問いに、クライトは首を横に振る。
「いや、空遊車で公園の前を通りがかってさ。君が一人でいるのが見えたんで、声をかけようと思って。君、重要参考人なんだから、一人でうろついたりしないで」
 やや厳しい口調で注意され、瀬奈は首をすくめる。
「すみません……」
 足元を見つめて謝ると、ノイアが取り成すように口を開いた。
「もう、隊長、そんなきつい言い方をしなくてもいいでしょう? 今、第五警備隊は忙しいから、遠慮されたんでしょう。でも、何かあったの? 元気無いわね」
「いえ、そんな。気分転換をしたかっただけなんです。すみません」
 慌てて手を振った拍子に、持っていたパンフレットが落ちてしまった。急いで拾おうとしたが、それより先にクライトが拾いあげる。
「……平原ツアー? こういうの好きなの?」
 どこか面白がるような問いだ。瀬奈は少し迷って、正直に答える。
「いえ、あの、イオリが好きそうだなって思って、誘おうかと思ってたんです。あ、えと、イオリじゃなくてレジオート君? さん? と呼んだ方がいいんでしょうか」
「誰か分かるから、気にしなくていいよ。それに、君は部下じゃないんだから、敬語でなくて構わない」
「はい……。すみません」
 つい謝ってしまい、縮こまっていると、クライトが大袈裟な溜息を吐いた。
「そんなに謝らないでよ。別に怒ってないんだけどな」
「隊長、最初にあれだけ脅かしたんですから、考えて接しないと駄目ですよ。警備隊の隊員が一緒にいない所で会うのは初めてなんですから、緊張してしまうに決まっています」
 瀬奈は驚いてノイアを見る。どうしてそんな風にぽんぽんと瀬奈の気持ちが分かるのだろう。
 ノイアは瀬奈に優しく微笑みかける。
「レジオート君、あなたの彼氏なんでしょう? 彼、こういうのが好きなの?」
「旅行が好きみたいですよ?」
「……彼女から誘わせるなんて、甲斐性がないのか? ちょっと腹立たしいな」
 クライトは不満げに呟き、パンフレットを瀬奈に返す。
「あはは。私が街で見かけただけですから、気にしないで下さい」
 クライトは見た目通り、男らしい人みたいだ。デートには男性から誘うべきという思考の持ち主のようである。
「なんか、悪いな、セナちゃん。俺が第五警備隊に話を持ち込んだばっかりに……」
「いえっ、大事な事件の解決の為ですから、仕方ないですよ。私がちょっと我が儘なだけなんです」
 瀬奈はパンフレットを鞄に突っ込むと、ベンチを立ち上がり、苦笑を返した。
「あら。そんな我が儘、可愛らしいものだわ。言ってみたら喜ぶんじゃないかしら」
「いいんです、カストルさん。今、本当に忙しいみたいだから、休みがあったらむしろ休んで欲しいですし……」
「じゃあ、俺と行くなんてどう?」
 クライトが悪戯っぽい笑みを口元に浮かべて問う。
 瀬奈はきょとんとした後、小さく吹き出した。
「もっと忙しい方が何を言ってるんですか。でも、気遣ってくれてありがとうございます」
 そして、瀬奈はその場でぺこっと頭を下げる。
「じゃあ、そろそろ帰ります。足を止めさせちゃってすみませんでした」


「振られちゃいましたね、隊長」
 茶色みがかった黒髪を風に揺らして立ち去る瀬奈を見送ると、ノイアは面白そうな声音で言ってクライトを見上げた。
「うるさいぞ、ノイア」
 後ろ頭をかきながら、クライトはじろっとノイアを睨んだ。それから、再び瀬奈へと視線を戻す。羨望が滲んだ声で呟く。
「ああ、やっぱりいいなあ、彼女。あんなことで落ち込むなんて、可愛らしい」
「まあ、隊長がお付き合いされてきた方に比べれば、ずっと純粋で可愛らしいでしょうね」
「何であんな奴と付き合ってんだろ」
「私的見解ですと、彼を選んだ彼女は見る目がありますよ。少なくとも隊長を選ぶよりはずっと」
「……俺、何か君を怒らせることしたか?」
 引きつり気味の笑いを浮かべ、クライトがノイアに問う。
「いいえ。一女性からの意見と、秘書としての見解を述べただけです」
「そうか? 悪意がたっぷり滲んでいるように思えたけどな」
「それは間違いではありませんね。私は隊長を尊敬しておりますが、お付き合いする相手としては最悪だと思っておりますので」
 ノイアは涼やかに答えると、ちらりと道路の方を示す。
「そんな話よりも、車に戻りましょう。仕事は他にもあるのですから」
「はいはい、了解」
「言っておきますが、彼女には第一警備隊の者が数名、影から護衛としてついています。隊長がわざわざ出向く必要はないんですよ?」
「知ってる。いいだろう、声をかけるチャンスだったんだ」
「そんな可愛らしいことを隊長の口から聞けるなんて、びっくりです。ですが彼女のことは諦めた方がいいですよ」
「上げるか落とすかどっちかにしろ」
 二人は軽口を叩きあいながら、ロバートの待つ車へと戻った。

      *

 第五警備隊に顔を出すのをやめて、一週間が経った。
 再び休日がやって来て、瀬奈は自室の窓際に座って、ぼんやりと空を眺めていた。
(バイト入れれば良かったなあ)
 とはいえ、一昨日バイトしたばかりだから、今は休息時間なのだ。だが、何もすることがないと、気持ちが落ち込んでしまう。
(イオリ達の仕事、そろそろ落ち着いたかな……)
 邪魔になるのは嫌だし、行っても仕事をしているのを眺めるだけで暇になるし、行く気分になれなかった。
(うーん、ぬくい……)
 そうして窓辺にもたれているうちに、だんだん眠くなってきた。
 うとうとと舟をこぎ始めた瀬奈は、訪問者を告げるチャイム音にびくっと飛び起きた。
「ふぇ!?」
 瀬奈の家を知る人は第五警備隊の本部メンバーやハティナー保護協会の監理員、双子だけなので、ほとんど訪ね人はいないのだ。
 ドキドキと鳴る胸を手で押さえ、緊張混じりにテーブルに向かい、立体画像の本体部分である四角形の機械に声をかける。
「コンピューター、訪問者の映像を出して」
 そうして出てきた立体画像には、手に紙袋を抱えたイオリが映っていた。驚いたものの、すぐに対応し、玄関に出迎えに行く。
「……よう、久しぶり」
 扉を開けると、イオリが無愛想な声で挨拶した。
 やはりまだ仕事が立て込んでいたのか、イオリの顔色は悪かった。目の下に薄らと隈が出来ている。
「イオリ? 急にどうしたの?」
「……とりあえず上がっていいか?」
「いいけど。あ、靴はそこで脱いでね」
「分かってる」
 久しぶりに会ったのに、何でそんなに不機嫌なんだ。
 瀬奈は胸の内がもやもやとするのを感じながら、ダイニングルームの方へ向かう。遅れてやって来たイオリは、紙袋をテーブルに置いた。
「これ、差し入れ。やる」
「へ?」
 何だろう。紙袋の中身を覗き込んだ瀬奈は、中身が野菜や果物ばかりなのに目を丸くした。
「どうしたの、これ」
「買った」
「いや、それは分かるんだけど」
 何となく要領を得ない。
「よく分かんないけど、ありがと。せっかくだし、どれか食べる? わっ!?」
 急に腰の後ろに手が回り、そのまま引き寄せられ、瀬奈は驚きの声を上げた。イオリは瀬奈を抱きしめたまま、微動だにしない。
「……い、イオリ?」
 何なんだ、急に。
 こういう風に抱きしめられるのは、告白の時以来で、瀬奈の頬がカッと熱くなる。頭の中がぐるぐると混乱してきたものの、いつもと違うイオリの態度に不安になった。
「どうしたの? 何かあったの?」
「……何で来ないの、お前」
「は?」
 瀬奈はきょとんと聞き返した。
 耳元で聞こえた声がどこかすねた響きを伴っているような気がした。
「一週間も顔出さないって、俺、何か怒らせることしたか? 告白の返事前のこと思い出して、だいぶへこんでるんだけど」
「だ、だって、私がいても邪魔でしょ?」
「誰がんなこと言った?」
 イオリの声が完全に不機嫌なものになった。
「いや、誰も言ってないけど、常識的に考えて邪魔でしょ」
「邪魔じゃない。つか、三日以上顔を見ないと落ち着かない。どうせ飲むなら、カエデのコーヒーより、お前のコーヒーが飲みたい」
「な……っ」
 何だ、この人。何を可愛いことを言ってるんだろう。
 瀬奈は顔がますます赤くなるのを感じた。
「そ、そう。ごめん。ときどき顔出すよ」
 そんな風に言われて満更でもない気分だ。だが、瀬奈からすると、カエデの淹れるコーヒーの方が断然おいしいのだけど。
「で、あの、さっきから何してんの? そろそろ離して欲しいなあ……なんて」
「嫌だ」
 イオリの低い声が本気で嫌そうに返した。
「嫌だって、あんたね……」
 子どもか。
「一週間分、補充してんの」
「何を?」
「セナ成分」
「……何よ、それ」
 どこの栄養補助飲料だ。
 困った瀬奈だが、腕から抜け出そうにも、がっちり抱き込まれていて動けない。瀬奈の頭に顎を乗せるようにして抱きしめているイオリはというと、ふいに呟いた。
「いいにおいだな、お前」
「……えっ」
 瀬奈は冷や汗が出た。
「におう!? ちゃんとお風呂には入ってるのに!」
「いいにおいだ、いいにおい。んな意味じゃねえ。あー、落ち着く」
「へ? え?」
 何がどう落ち着くのか分からないのだが、イオリが体重をかけてきたので、瀬奈は慌てて足を踏ん張って重みを支える。
「ちょっと、重い! もう、ふざけてないで離れてよ」
「いいだろ、これくらい。俺達、付き合ってんだぜ? 俺が色々我慢してるのを分かって欲しいもんだな」
「はあ?」
 意味が分からない。
 眉を寄せて顔を上げた瀬奈は、ふいにイオリが身を離し、目を合わせてきたのでたじろいだ。夜色のダークブルーの瞳が、熱っぽい光を帯びているような気がした。惹きこまれる綺麗な色の目だ。
 その目がだんだん近づいてきて、あっと思った時には、唇を何か熱いものがかすめていった。
 イオリは猫のように目を細めて、上機嫌に笑う。
「今回はこれで勘弁してやるよ」
「へ? え? 今……!」
 キスされたのだと気付いた時には、もう遅い。瀬奈は真っ赤になって、口元に手を当て、どうしていいか分からなくなっておろおろと周りを見回す。
「ああ、可愛いなあ」
 感慨深げにイオリがぼそりと呟き、瀬奈の頭をくしゃくしゃと掻き回す。
「もしかして、初めてだったとか?」
「悪かったわね!」
「え? まじ? そりゃラッキーだな。もっと感慨たっぷりにしときゃ良かった」
 嬉しげに笑った後、少し残念そうにイオリは言い、また顔を近付けてくる。
「そんなわけだからセカンドを」
「待った待った! 不意打ち禁止ー!」
 瀬奈はイオリの口に手を当て、押しのける。イオリは不思議そうに首を傾げる。
「……不意打ちじゃなきゃいいわけ?」
「え?」
「セナ、キスさせて」
 その頼みに、瀬奈はぎゃあと悲鳴を上げ、手をぶんぶん振り回す。
「わー! あっさり言わないでよ、恥ずかしい! もう、何なのよ、急に。今日のイオリ、何だかおかしいよ」
「疲れてんだよ。この二週間、ほとんど寝てねえし、俺の癒しは顔出さないし」
「わ、悪かったから、ちょっと落ち着いて」
「俺は落ち着いてる。落ち着いた態度で、セナと恋人らしいことをしたいと」
「わあわあ聞こえない聞こえない!」
 瀬奈は一人で騒ぎながら、要注意人物な彼氏から遠ざかるべく、テーブルの反対側に回り込んだ。
「そ、そりゃあ、恋人っぽいことするの憧れてはいるけどね? 私にも心の準備ってものが。ああ、そうだ。これ食べよう! 果物!」
「そうだな、そうするか。追い詰めすぎると小動物は逃げ出すからな。こう、徐々に袋小路に追い詰めた方が良いよな?」
 綺麗な笑顔で何か恐ろしいこと言ってる。
 瀬奈は背筋がぞっとした。
 だが、イオリは恋人らしいことをするのを諦めてくれたようなので、瀬奈はどぎまぎしながら果物を持ってキッチンに逃げる。
(びっくりした。イオリ、ときどき心臓に悪いんだから)
 イオリの熱っぽい目をして押してくる態度が苦手だ。どうしていいか分からない居心地の悪さを覚えるのだ。
(何か、機械馬鹿の癖に、女慣れしてる気がするんだけど)
 ちょっとだけもやっとした瀬奈だが、思考を切り替えて果物をカットするのに意識を向ける。
 こんな風に瀬奈が困る態度をとる程、疲れることがあったのか、後で訊こうと考えながら。

       *

「結論から言うと、解析出来なかった」
「へ……。ええ?」
 瀬奈は果物を口に頬張ったまま、ぴたっと動きを止めてイオリを見た。四人掛けのテーブルの向かい側に座ったイオリはというと、疲労の濃い顔に、心底参ったという失望感と仕事が上手くいかない苛立ちの両方を滲ませている。
「ほとんど徹夜で作業し続けて、最終段階の所でつまずいた。動力になってる機関に記憶用の媒体が埋め込まれてたんだが、無理に取ると自爆する仕組みになってるみてえでさ」
「自爆……」
「そ」
 イオリはあっさり頷いて、瀬奈が出したコーヒーを一口飲んだ。
「かと言って、取り出さないで解析っていうのは無理だ。分解も出来ないんじゃお手上げだ」
 両手をパッと広げ、背もたれにだらっともたれかかり、イオリは天井を仰ぐ。随分参っているイオリを眺め、瀬奈はふと問題点に気付く。
「っていうかさ、イオリ」
「ん?」
 天井から瀬奈へと視線の向きを変えるイオリに、瀬奈は不思議に思って問う。
「そんなこと、私に教えていいの? 部外者じゃないの、私。秘密にしなくちゃいけないんじゃ……?」
 そんな瀬奈を、イオリはきょとんと見る。
「何言ってんだ、一番の重要参考人が」
「うっ」
「それに、隊長からも伝えるように言われてる」
「あ、そうなんだ。良かった」
 教えたせいでイオリが怒られるのは、瀬奈は嫌だ。ほっと胸を撫で下ろす。そうして、なんとなく腕輪を眺めた。
「何で私なんかにこんなの預けたのかな。もう、面倒くさい!」
「俺だって嫌だよ。お前にそんなん付けるなんてさ。所有者みてえにさあ。彼氏は俺なのに」
「付けられた時は違ったでしょ。変な怒り方しないでよ」
 本当に今日のイオリはお疲れみたいである。可愛らしい嫉妬に瀬奈はつい笑ったが、このままイオリの機嫌が悪くなっても困るので、わざと明るく言って手をひらつかせた。
 イオリは考え込むように沈黙したかと思えば、急にやる気を出して身を乗り出す。
「それ外れたら、何かプレゼントするよ。いや、ピアスか指輪なら外れる前でも贈って平気か?」
「ええっ、いいよ。悪いよ」
「何が?」
「だから、プレゼントを貰うのがだよ。誕生日でもないのに」
 不必要に物を貰うのは、瀬奈には気が咎める行為だ。イオリはつまらなさげにがしがしと金髪を掻き回す。
「欲ねえなあ。俺、これで社会人なんだぞ? お前に何かプレゼントしたからって生活苦にはならねえのに。どうせ貯めるか部品代に消えるんだ。彼女に何か買った方がまだ健全だろ」
「意外だわ、イオリ。あんたってそういうことしないタイプだと思ってたけど、マメなのね」
 イオリは目つきが悪いのでつっつきにくいが、面倒見の良いタイプだし、色々と予想と違うので、意外な一面を知る度に新鮮な気持ちになる。
(というか、意外と人間が出来てる……。男前ね……)
 ぽかんと呆ける瀬奈。最初、問答無用で牢屋送りにされたので印象が最悪だったから、見直すたびに良い方へと上がっていく。新たな一面に、瀬奈は見慣れた綺麗な顔が頼もしく見えてドキッとした。
「おい、何でそこで顔を背ける?」
 熱い頬をごまかすように両手で押さえ、瀬奈は目を泳がせる。
「ちょ、ちょっと、見直しちゃっただけだよ」
「……セナさあ、俺のことどんだけ低く見てたんだよ。ったく、双子といい、ひでえ奴ら。これくらい、普通だろ?」
 ああ、いけない。機嫌が悪くなってしまった。
 どうやってなだめようかと考える瀬奈だが、イオリは溜息混じりに言葉を並べ始める。
「あのな。男が女に物をやるのなんて、下心があるに決まってんだろ? それに虫除けもあるしな。これは俺のだから手ぇ出すなっていう牽制だよ、牽制。だから素直に受け取れ、いいな」
「ええ、でも」
「いいか、俺はあの閉鎖的な環境の職場だが、お前は学校に行ってるんだから色んな奴がいるだろ? 俺の場合、迷惑なことに顔目当ての軽い女ばっか寄ってくるけど、お前の場合は遊びじゃなくて本気の奴の方が多いだろうと思うわけ。虫除けは絶対に必要だ」
「何言ってんの、あんた。私みたいな普通な女に寄ってくる虫なんかいるわけないでしょ。機械ばっかいじってるせいでおかしくなったんじゃないの」
 瀬奈が本気でイオリの頭の異常を疑ってしまうと、イオリはピキッとこめかみに青筋を浮かべた。
「いいから四の五の言わずに受け取るって言え! 面倒くせえ奴だな」
「もうっ、分かったわよ。むきになっちゃって子どもみたい」
「何か言ったか?」
「別にぃ」
 ぷいっとそっぽを向いた瀬奈は、腹立ちまぎれに呟いた。
 だが、イオリは受け取ると言わせて満足したのか、機嫌を直して小型検索機を出して調べ出す。
「何がいいかな。希望あったら言っとけよ」
「邪魔にならなければ何でもいいけど、ネックレスが一番良いなあ」
「それは事件を解決してからな。時計は……そっか、腕輪と妙に反応して変な誤作動起こしても怖いしな、今度がいいか。アクセサリーの腕輪がいいかな」
 宙に投影された電子画面を眺め、検索機を操作するイオリは楽しそうである。
「ちょっと、今、物騒な言葉が聞こえたんだけど」
 瀬奈の方は聞き捨てならず、頬をひくりと引きつらせる。
「可能性はゼロに近いが、一応な。セナは何か希望ないのか? どこか行きたいとか。何だったら泊りがけでもいいぜ」
「……身の危険を感じるから、それはやめとく」
 良い笑顔を浮かべるイオリに不気味さしか覚えない。
 だが、瀬奈は良い機会だと、言おうとしてやめていたパンフレットを取ってくる。
「ねえ、これなんてどう?」
「平原ツアー? 楽しそうだな」
「でしょでしょ」
 瀬奈は浮き浮きと頷く。
「イオリ、こういうの好きかなと思ったんだけど。忙しそうだから、本当は言うつもりなかったんだけどね」
「何遠慮してんだよ。言えよ、これくらい。早めに言ってくれりゃ、休みをとれるんだ。急だと仕事が詰まってるから無理な場合があるけどな」
「あ、じゃあ、やっぱ無理かあ」
「勝手に結論を出して落ち込むな。うーん、ちょっと待てよ。あ、この日だったら休みとれるぞ」
 すぐに検索機で予定を確認したイオリが電子画面を示し、瀬奈はイオリの斜め後ろに回り込んで画面を覗き込む。
「あ、二週間後の週末だ。アカデミーは休みだよ。この日に行かない?」
「おう、いいぞ」
「やった! 後で申込みしとくね!」
 瀬奈はパンフレットを握り締め、笑みを浮かべた。ここ最近の悩みはなんだったんだろうと不思議だ。
 早速準備しようと浮かれていると、イオリが手招きした。
「セナ、こっち」
「え? 何?」
 真面目な顔で呼ぶので、瀬奈もつられて真面目な顔でイオリを覗き込むようにして見ると、イオリがにやっと笑った。嫌な予感がして思わず身を引こうとしたが一歩遅く、イオリは瀬奈を自分の膝の上に座らせ、ぬいぐるみにでもするみたいに、ぎゅっと抱きしめた。
「やっぱ可愛い……。ああ癒される」
「ちょっとー!?」
 やめるって言わなかったっけ、さっき!
 どうやら本格的に疲れているらしい。今度から、疲れているイオリには近づかないようにしなくてはと瀬奈は決意を固めながら離れようとじたばたするが、イオリが充分癒されるまで、しばらく腕から逃げられなかった。
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