虹色のメロディ編 第五部 虹色の終息編

十九章 狂博士の狙い 

「チャンスねえ。あれだけ回答権限が無いとか言ってたのに、どういう風の吹き回しだ?」
 クライトは冷たい目でイリスを見た。イリスの薄水色の目が、クライトをひたりと見据える。
「私はスクラップになりたくないのです」
「だから俺達と取引しようって? セナちゃんをさらったのはお前の仲間だろう。その時、事故で犠牲者が出た。それが許せる範囲だとでも?」
 クライトの切り替えしを、フォールが止める。
「気持ちは分かりますが、ここは彼女の手助けが必要でしょう。落ち着いて下さい」
 イリスはフォールに向けて手を挙げて止め、再びクライトに言う。
「クライト・バーミリオン、あなたの怒りももっともです。ですが、このままではお父様はアレを使うでしょう」
「アレって……まさか!」
 クライトはぎょっと目を見開いて、イリスに詰め寄る。
「〈虹色のメロディ〉か? 確かにセナちゃんの腕輪にデータが入ってるという話だったが……」
 イリスは首を横に振る。
「いいえ。アレはすでにあのアクセサリーにはついていません。所有者が持っているのです」
「なんだい、まどろっこしい言い方だな」
 フォールが怪訝そうに口を挟むと、イオリが挙手した。
「たぶん、使用禁止ワードを使わないで、教えてくれてるんだ」
 イリスはそれにはイエスともノーとも言わず、ただ、ほんのりと口元に笑みのようなものを浮かべた。それが答えだった。
 イオリは首を傾げる。
「しかし分からないな。〈虹色のメロディ〉は、コンピュータウィルスだろう? それをどうして瀬奈が持ってることになるんだ」
「……少なくとも、彼女から取り出すにあたり、廃人になる可能性も」
 イリスの答えに、イオリとクライトは同時に叫ぶ。
「なんだって!?」
「なんだと!」
 フォールやカエデも頭を抱える。
 すっと真剣な顔になったイオリは、ぶつぶつとキーワードを呟く。
「腕輪、コンピュータウィルス、取り出す、廃人。これらから考えるに、腕輪を付けたことで、セナにコンピュータウィルスのデータが移動したと考えられる。……データを電気信号に変えて送り出したってことか。そうすればもし腕輪を取り上げられても、セナが生きている限り、データ自体は無事だ」
 恐ろしい結論を弾きだして、イオリは青ざめた。
「なんて奴だ、狂博士……。人体を使った情報蓄積は違法だぞ! 過去の実験で、情報量に脳が耐えきれなくて、何人が死んだと思ってる!」
「あなた、そんなことの為に、セナを犠牲にしようっていうの!」
 カエデがイリスに飛びかかって、その襟首を掴んだ。涙目で抗議する。
「ひどいわ! ひどすぎる!」
「カエデ・ジーナスト、私はスクラップになりたくないのです。あなたが先程言いましたね? セナならば私を擁護してくれる、と」
「だから何よ! セナが無事でなかったら、私も容赦しないわ!」
「落ち着いて聞いて下さい。私にはセナが必要なのです。私も彼女を助けたい。だから、回答権限に縛られない範囲でこうして協力しています」
 気付かないのか、と、イリスは問う。
「私はあなた方に捕まった時にはすでに、お父様に捨てられていたのです。『お前はもう不要だ。私の前から消え失せろ。――いや、オトリになって、スクラップにされてしまえ』お父様はそう言いました。あの方は、復讐の為ならなんでもするつもりです。そして私なら止められます。私は……薬なのです」
 イリスの言うことが分からず、皆、唖然とイリスを見つめた。
「薬って……」
 イリスは急に話を変えた。
「ところで、セナが身に着けていた発信機はどうなりましたか」
「えっ? そこのボロビルで止まってるけど……。どうしてそれを知ってるんだ?」
 イオリの問いに、イリスは僅かに首を傾げる。
「私の目はセンサーになっています。機械ならば全て分かります。もう一人の私も気付いたはずです」
「だからそこに捨ててったんだろ?」
 イライラと返すクライトに、イリスは冷静沈着に答える。
「ここはもう一人の私の通り道のようですね。ところで、アレを使うのにもっとも都合の良い場所が、この辺りにありませんか?」
「は? コンピュータウィルスを使うのにか? そうだな、端末……それも政府の所有する端末があれば尚良いが……」
 クライトは周りを見回す。イオリ達もそれぞれ周りを見て、自然と一ヶ所を見上げる形になった。
「……インターネットの中継塔か!」
 都市にそびえるビルの間にある、鉄骨の中継塔は、堂々と町を見下ろしている。
「あんな所に堂々と忍び込んでたのか。だが中継塔なら確かに、端末のある場所よりも警備が薄い」
 舌打ちするクライトの言葉を、フォールが引き継いだ。
「それに……電気がたっぷりある」
 皆、間違いないと確信して頷いた。
 すぐにフォールが命令を飛ばす。
「行くぞ、イオリ! セナちゃんを助けないと!」
「ああ!」
 急いで空遊車に乗り込もうとするフォール達に、イリスがついてくる。
「ちょっと!」
 抗議の声を上げるカエデに、イリスは言う。
「私も行きます」
「でも……」
「私は薬だと言いました!」
 押し問答をしていると、クライトがぶち切れた。
「もういいから行け! そいつはセナちゃんを助けるって言ってんだ、せいぜいコキ使えばいいんだよ! ――だけどな、イリス。俺は金属を操るハティナーだ。もし妙な真似をしてみろ、一瞬でスクラップにしてやるからな」
 クライトの睨みに、イリスは頷いた。
「感謝します、クライト・バーミリオン」
「今後呼ぶなら、隊長だ。ほら、行け!」
 クライトに促され、渋々カエデはイリスが乗るのを受け入れると、空遊車の扉を閉める。そして、空遊車は勢いよく走り出した。


     *


 目を覚まして最初に気付いたのは、埃っぽいにおいだった。
 瀬奈は天井をぼーっと眺める。薄暗いが周りはなんとなく見える。倉庫のような場所なのか、箱が積み重なっている。そこにベッドを置いているらしい。
 そこでハッと我に返った。
 くらくらする額を押さえて起き上がり、周りを見回した瀬奈は、ベッドを降りようとして、左足が何かに引っかかったのに気付いた。足枷がされている。
「何これ」
 足首を包む部分は柔らかい素材で出来ていて痛くないが、そこにつながる細いワイヤーはやたら頑丈のようで、引っ張ってもビクともしない。
(なんで私、こんな所に?)
 寝起きが悪い瀬奈は、気絶する前のことを思い出すのに少し時間がかかった。
 そういえばもう一人のイリスにどこかに連れていかれようとしていたのだ。
「確か……完成品」
「そうです。起きましたか」
 扉の方でイリスの声がして、パッと部屋に明かりが点いた。
 人間でありたいと願っていたイリスとは違う、冷たい目。やはりもう一人の方のイリスだと瀬奈は確信した。
 ややこしいので、こちらのイリスのことはイリスBと呼ぼうと決める。
 眩しさに目を覆う瀬奈の所に、カツカツと靴音を響かせてイリスBは歩いてくる。
「薬が効きすぎたようで、予定より一時間長く寝ていましたね。体調はいかがですか?」
「少し頭が痛いけど……。あの、ここはどこなの?」
「お父様の研究所です」
 イリスBはそう言うと、瀬奈の首筋に右手を添えた。
「体温、心拍ともに正常ですね。良かった。大切なデータを失くしては、お父様に叱られますから」
「データ? なんのこと?」
「あなたのことですが」
 さも当然というように、イリスBは言った。
 しかし瀬奈には理解不能である。
「あなたのお父さんが狂博士と呼ばれてる人のことなら、こっちに用事があるんじゃないの?」
 瀬奈が腕輪を見せると、イリスBは瀬奈の腕輪を見下ろして、「ああ」と呟いた。そして、急に部屋を出て行くと、今度は氷の入ったビニール袋を手に戻ってくる。
「この腕輪はもう不要です」
 腕輪を氷で冷やすと、あんなに何をやっても壊せなかった腕輪の留め具が浮かび上がり、すんなりと外れた。
「ええ!?」
「これはほんの少しの熱により、より細かく密度を増す金属で出来ています。冷やせば留め具が外れる仕組みです」
 びっくりする瀬奈に、イリスBは淡々と説明した。
 そして、外れた腕輪をひらつかせる。
「この中に入っていたデータは、あなたの中にあります。――ここに」
 イリスBは瀬奈の頭を指先で軽く叩いた。
「……へ?」
 目をぱちくりと瞬く瀬奈。
「あ、頭にって? 私、データというのを見た記憶もないのよ?」
「腕輪を付けられた時、ビリッと電気が走る衝撃がしたはずです」
「……あ」
 確かに、静電気のようなものが走った覚えがある。ちょっと痛かったのだ。
「人間は神経を通して脳へ情報を送る際、電気信号を送ります。それを利用して、あなたの脳にデータを送ったのです。その為、あなたを丁重に連れてこなくてはいけなかった。第五警備隊に保護されているハティナーだというのは、お父様にとっては誤算でしたが」
「たったあれだけで? そんなことが可能なの……? よく分からないわ」
 イリスBの説明を受けても、瀬奈は信じられなかった。
「理解する必要はありません。あなたは大事なデータです。お父様の研究の集大成――〈虹色のメロディ〉の一時保管者でしかありません」
 イリスBは淡々と言って、ベッドの側面を操作してワイヤーを取り上げると、それをぐいと引っ張った。
「わ!」
 足枷のついた左足が引っ張られて、瀬奈はベッドから転げ落ちそうになった。そこをイリスBが受け止める。
 難なくセナを横に抱えると、イリスBは歩き出す。
「ちょ、ちょっと、どこに行くの?」
「あなたからデータを取り出す必要があります」
「頭の中に入れたデータを、どうやって取り出すのよ。まさか、手術!?」
 瀬奈の背筋に寒気がはいのぼった。
 相手は狂博士と言われている男だ。死体を盗んだり誘拐したりして、人体実験を繰り返す狂った科学者。
 瀬奈もその一人になるとしたら、死しか待っていないではないか。
「肉体を切り裂いて、あなたを殺しては意味がありません」
 イリスBはそれだけ答えて、足元に点々と明かりがついたリノリウムの廊下を、静かに歩いて行く。
 不安で仕方がない瀬奈の体は、意思に反して震え始めた。それを両手を握ってやりすごすのに必死になっていると、廊下の向こうに扉が見えた。


     *


 その部屋は歯医者の部屋を連想させた。
 リクライニングチェアの横に機材が並び、大型の画面が三つ並んでいる。右の画面は六分割されていて、どこかの光景が映し出されていた。監視カメラの映像のようだ。
 機材の前では、白衣の男がこちらに背を向けてしゃがみこみ、がさがさとプラスチックケースの中を漁っている。
「ここって何かの施設なの?」
 瀬奈はイリスBに怯えながら訊いた。大型の研究施設にでも拉致されたのだろうかと不安になる。
 イリスBは頷いた。
「ええ。ここはインターネットの中継塔ですよ。その倉庫を間借りしています」
「間借りって……許可とってるの?」
「ジョークですか? 面白いですね」
 犯罪者のアジトだ、そりゃあ無許可だろう。
 瀬奈は無理矢理笑ってみたが、イリスBは言葉と違って無表情のまま、瀬奈の腕を引いた。そして、リクライニングチェアの方へ向かう。
「おお、戻ったのか、ユーリエ」
 そこでようやくこちらに気付いた男が振り返った。
 瀬奈はあっと声を漏らす。以前、路地裏でぶつかった老人だった。間違いなくニノ・オラニスだ。
 ぼさぼさした白髪頭には、頭に固定するタイプの電子型モノクルを付けている。彼の青い目はぎょろついており、どこか爬虫類を思わせた。白衣はところどころ汚れている。その黒い染みの正体がなんなのか、瀬奈は考えないことにした。
 ユーリエと声をかけられたイリスBは、ニノの前に瀬奈を押し出した。どこか誇らしげに返す。
「ええ、お父様。お望みのものをお持ちしました。……嬉しい?」
「もちろんだよ、可愛い娘よ」
 イリスBは“お父様”に頭を撫でられて、うっとりと目を細めた。
 作り主とアンドロイドの歪んだ関係を目の当たりにした瀬奈は、不気味さに背筋が凍った。逃げたいのだが、イリスBはがっしりと瀬奈の腕を掴んでいて、とても解けない。
 ニノは瀬奈と向き直ると、にやりと笑った。
「この間は、腕輪を預かってくれてどうもありがとう、お嬢さん。なに、そう怖がらなくていい。すぐに済むからな」
 ニノがリクライニングチェアを示すと、イリスBは瀬奈を座らせた。背もたれに背を押し付けられた時、リクライニングチェアの横からゴム製のベルトが自動で出てきて、瀬奈を拘束した。手首と足首以外、どこも動かせなくなった。
「私をどうするの?」
 出来れば聞きたくないと思いながらも、瀬奈は不安のあまりそう声をかけていた。
「切り刻んで殺すの?」
 うっかり想像して、胸が苦しくなる。
 ニノはかかと笑った。
「まさか、お嬢さんを殺してしまったら、データが取り出せなくなる」
「その、データが取り出せないってどういうことなの?」
「簡単じゃ。脳をストレージにしたというわけだよ」
「す、ストレージ……」
 瀬奈は記憶を漁って、教科書の一文を思い出した。コンピュータでの記憶装置のことだ。コンピュータにとって必須の装置である。
「そんなことが出来るの?」
 不安しか覚えず、瀬奈は重ねて問う。
「公には出来ないことになっておる。非人道的だとかでな。まあ、脳にこだわらなくてもいいんじゃが、まだ他の部位だと効果が不安定でのう。DNAストレージはまだ基礎研究段階であるからして」
「DNAストレージって?」
「なんだ、物を知らぬ娘だな。DNAを0と1に置き換えることで、ストレージにする技術のことじゃよ」
 ニノは機材をいじりながら、律義に説明した。
 そんなのあるんだ、と瀬奈は内心で呟いた。瀬奈はアカデミーでは、慣れない言葉で書かれたコンピュータのプログラムについて学ぶのがやっとで、他に意識を向ける余裕はない。
「ユーリエ、頭に機材をセットしておくれ」
「畏まりました、お父様」
 イリスBはてきぱきした動作で、瀬奈の頭にヘルメットのようなものを固定する。
「お嬢さんの脳が、外部記憶装置の役割であるからして、そこからCPUにアクセスする機材じゃな。目当ての記憶を探すのに手間がかかるが、すぐに見つかれば、お嬢さんも無事で済むじゃろうのう」
「えっ、むぐ!」
 詳しく聞こうと声を上げた時、イリスが瀬奈の口に猿ぐつわをした。
「悪く思わないでくれ。舌を噛み切られては困るのでな。悪いが麻酔は出来んのだ、起きていないと情報を探せないのでね」
 不穏な気配しかない説明だ。
 それからしばらく、瀬奈には分からない機材が更に追加され、ニノは画面に瀬奈には分からないプログラムを表示させて、準備を始めた。
「ユーリエ、出口を守っておくれ」
「はい、お父様」
 邪魔が入らないようにと、イリスBが部屋の扉の方へ向かう。
「では、始める」
 ニノはそう宣言し、何かのボタンを押した。

    *

 まるで頭を掴んで揺さぶられているような感覚だ。
 瀬奈は頭の中に次々に浮かび上がる映像に翻弄されて、吐き気と酩酊感に襲われた。
 左端の画面に、瀬奈の頭に浮かぶ情報がそのまま表示されているのだが、瀬奈はそれを理解出来る状況ではない。
 訳が分からなくて苦しくて、目に涙が勝手に浮かんでくる。
 視界を閉ざして休みたいのに、それも許されない。
 ただ止まって欲しいとだけぼんやりと感じながら、記憶が引きだされていく波に翻弄されていた。
「おお? なんだ、この娘の記憶は……」
 ニノは画面に映った見たこともない景色の記憶に目を奪われた。
 それは瀬奈が地球で過ごしていた時の、ごく平凡な毎日の欠片だ。
 コンクリートの防波堤。青い海。バスや車。黒髪黒目の人々。
 車輪で動く車は、ヴェルデリアではとっくに廃れて博物館行きだ。ド田舎にしてはロボットもいない。
 特にニノが魅入られたのは、宇宙についてのTV放送の場面だった。スペースシャトルが打ち上げられ、人間が月に行く話。

 ――その時、ふいに画像が止まった。

「困るなあ、こういうことをされちゃあ」

 灰色のローブを着た十二歳くらいの男の子が言った。
 ニノはぎょっと驚く。
「いつの間に? どうやって? ユーリエがいるのに? ってところかな。狂った博士さん」
 男の子は金に光る目を輝かせて、首を傾げた。
 ニノはちらりと瀬奈の方を見やる。彼女は目を閉じて眠っていた。
「この装置は止めたよ。目当てのデータはそこに入れておいたから、それで勘弁して欲しいね」
「な、何故……どうして……? お前はなんだ?」
 ニノが扉の方を見ると、イリスBも立ったまま動きを止めている。
「うーん、そうだねえ。僕は惑星管理人だよ。あえて名乗るなら、僕は……そう、神様かな? ねえ、困るんだよね。空を飛ぶ技術についての知識を得てしまうのは。僕はさ、同じ悲劇が起きないように、食いとめるのが役目だから」
 男の子は頭を掻いた。
「しかし困ったな。虫喰い穴の落とし子が引き金になることもあるのか……。とりあえず、他のデータは削除っと」
 男の子が人差し指を機材に向けると、先程取り込んだデータのうち、虹のメロディのデータ以外は全て消えてしまった。
 ニノにとっては訳が分からないことで、唖然と目と口を開ける他ない。
「悪いけど、もう使えないように壊しておくから。ああ、かわいそう。負荷がかかって脳が熱を持ってるじゃないか。数秒様子見しちゃったからな……ごめんよ。うんうん、でもこれなら大丈夫だ。休めば治る」
 瀬奈の様子見をした後、男の子は再びニノを振り返る。
「空を飛ぶ技術以外は見逃しているけど、暴れるのはほどほどにしておいてくれよ、ニノ・オラニス。――まあ、覚えてないんだけどね」
「な、何?」
 ニノが恐怖で身を引いた瞬間、バチッと雷に打たれたような衝撃が走った。


     *


 ニノははっと我に返った。
 まるで夢から醒めたような感覚に、頭を緩く振る。
 さっきまで何をしていただろうか、重要なことをしていたような気もする。
 だが、周りは静かだった。機械の駆動音がブーンと低い音を立てている。
 出口の方を見ると、イリスBと目が合った。
「誰も来ていませんわ、お父様」
「そうか……」
 ニノは首をひねった。何か大事なことを忘れたような気がするが、思い出せない。コンピュータの画面には、目当てのデータがダウンロード済だと表示されていた。
「いつ終わったんだ?」
 やはり思い出せなかった。
 違和感があるのに、正体が分からない。だがそれよりも、ニノは目的達成をした喜びに意識が向いた。
 瀬奈は奇跡的にも軽傷で済んだようだ。気を失っているものの、熱が高い程度の異常しか見当たらない。呼吸がしづらそうなので、猿ぐつわだけ外すと、拘束はそのままで椅子の角度を戻す。
 それでニノはコンピュータの画面に視線を戻した。
 ダウンロードが済んだプログラム名には『虹色のメロディ』と書かれている。
「〈虹色のメロディ〉、ようやく手元に取り返した……!」 
 感嘆を込めて呟いたニノは、イリスBを振り返る。
「ユーリエ、こちらにおいで」
「はい、お父様」
 出口を張っていたイリスBは、すぐにニノの傍に寄ってきた。
「お前の出番だ。まずは実験として、第六都市フィースの都市機能を麻痺させよう」
 ニノはプログラムを開いて、データを集める準備をする。
 そして、イリスBの人差し指の先から出てきたコードを、コンピュータに繋いだ。
 〈虹色のメロディ〉のプログラムを開いて、イリスBにデータを読み込ませる。その時、鍵をかけていたはずの扉が開いた。
「手間かけさせやがって、ニノ・オラニス! 追いかけっこはここで終わりだ!」
 クライトは銃を構えたまま怒鳴った。続いて、フォール、イオリ、カエデ、そしてイリスAが現われる。
「ほう、あのロックを解除してきたか。かなり複雑な暗号にしておいたのだがね」
 ニノはリクライニングチェアを回転させて、眠る瀬奈をクライト達に見せた。銃を瀬奈の頭に押し当てる。あまりに自然な動作すぎて、誰も手出しする隙が無かった。
 クライトは冷静さを装って返す。
「ロックなんかしても意味はない。俺の前では金属製品は無意味だ」
「ふっ、じゃが、この娘の命は意味があるのだろう? いくら〈金属〉のハティナーでも、この近距離では銃の発射速度までは止めきれん」
「こんのクソジジイ……」
 クライトは勿論、フォール達も歯噛みする。
 余裕の態度で彼らを見たニノは、そこに自分が作ったアンドロイドの姿を見つけて眉をひそめる。
「試作品か……どうしてここにいる? 命令したはずだがのう」
「お父様、私は自分の意思で、彼らに協力しました。どうか怪我をされる前に捕縛されて下さい」
 イリスAの言葉に、イリスBはぎろりとにらんだが、データを読み込んでいる最中なので、何も言わなかった。代わりに、ニノが耐えられないというように笑い出す。
「意思! まったくおかしなことを言う。機械は意思など持たない! だが、娘の脳がそんなことを言わせるわけがない! だからお前はポンコツなのだ。スクラップにされてしまえ!」
 目をぎょろつかせて、ニノは怒鳴った。
「娘は、娘なら……そんなことは言わない。幼い頃からチューブに繋がれ、何度も痛く苦しい思いをしてきたのに、最期は医療ミスで死んだのだ。娘なら悔しくてそんなことは言わない! もう充分だから、復讐などやめろなどと!!」
 怒りを込めて叫ぶと、ニノはぜいはあと肩で息をする。
 彼の興奮具合に、クライトらは面食らった。カエデがイリスAに注意する。
「ちょっと、イリス、博士を興奮させないで。セナが危ないでしょ!」
「申し訳ありません……」
 イリスAは謝った。その声にはどこか悲しみが混ざっている気がする。
 ニノは眩暈がした。
 真っ白な病室にいた娘が、ニノを気遣い、申し訳なさそうに微笑んでいた在りし日の記憶がよみがえる。
「うるさい! お前はワシの娘などではない! まがいものだ!」
 大声で否定する。
 ニノは心の隅で、微かに娘の片鱗を見つけたことから目を反らした。
「嘘だね。あんたは気付いてるんだ、イリスの発言は娘に似ている。そうなんだろう、オラニス博士。だからあんたは、このアンドロイドを自分の手でスクラップに出来なかったんだ!」
 イオリが確信を突くと、ニノは一気に頭に血が昇った。
 図星であった。
 ニノにはとても出来なかったのだ。自分の手でスクラップにすることなんて。それではまるで、娘を二度も殺すことになる。同じならば、敵にスクラップにさせて、それを恨んで生きていく方が余程マシだった。
 しかし娘の片鱗を認められない。認めてしまえば、復讐に費やした日々が無駄になる。
 最愛の娘のためにやって来たことなのに、その本人が止めるなんて許せなかった。だが、娘が生きていたなら、きっとニノを止めるだろう。
 感情の板挟みにさいなまれ、ニノは頭がおかしくなりそうだった。その時、イリスBが声を出した。
「データの読み込みが終了しました」
 機械の音声のそれだが、ニノの意識を引き戻すには充分だった。
「はははは、これで終わりだ。私の研究の集大成、そのフィナーレをとくと見るが良い!」
 ニノはコンピュータを操作して、〈虹色のメロディ〉の実行ボタンを押した。
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